ジュンサイ、地元で人気拡大

(6月30日)

 本日のランチで注文した「サバの味噌煮定食」に小鉢が付いてきた。ジュンサイにおろし生姜(しょうが)を添えて。酢醤油を一回しかけて、若芽を飲み込むと、ツルンとしたのど越しで、初夏の「さっぱり感」が広がった。
 この時期にお値打ち価格の定食に付く夏向きの「酢の物」といえば、トコロテンが定番だが、地元特産のジュンサイが登場したとあってうれしくなった。
 その夜、なじみの店に油を売り行くと、「ジュンサイ食べる?」とママが聞いてきた。「昼に食べたからいらない」と言うはずが、「食べるヨ〜」と返事してしまった。無下(むげ)に断わって嫌われたくもないし、ジュンサイのお通しは胃にもたれる重たい料理ではなく、低カロリーで酢とマッチングして健康にいいだろう―との判断が瞬時に働いたのだ。
 昼に比べて、葉と茎が少し大きかったが、結果的に飲み込んだものの、「ジュンサイを食べた」という食感があり、それはそれで乙(おつ)ではあった。
 そもそも、都会では高級食材といわれ、料亭で振る舞われたり、高級レストランで洒落たメニューに取り入れられるジュンサイが、わが地域では“すました風”ではなく、ごく当たり前に出てくるところに、満足感を覚えるのだ。
 気がつくと、旧山本町を中心とした三種町、さらには能代山本はジュンサイの産地として、地元住民に強く認識され、料理も普及してきている。わが家では三種直伝の「地鶏とジュンサイとミズの鍋(醤油ベース)」がこの時期の欠かせぬメニューとなったし、後輩の若いお母さんたちもだ。
 「ジュンサイ入りソーセージ」やデザートの「ジュンサイ入りマンゴーのブラマンジェ」など新商品の登場も続き、これまた面白い味で期待大。
 ジュンサイの地元定着は、農業団体や行政などの地産地消のPRの効果もあるだろう。農産物直売所やスーパーで旬や安心安全が求めやすい価格で販売されるようになったこともある。住民が「誇れる特産品」として圏域内に贈っていることも効果を生んでいる。
 地元で好んで消費される食材となれば、全国で人気が広がってくるはずだ。(八)


花が繋げる人と地域

(6月26日)

 夫婦手作りのバラとハーブの庭を無理に見学させてもらうと、主人は見事に咲き誇る淡黄色のバラを指して、「ピースです。去年は2輪しか咲かなかったが、今年はこんなに咲いた」と笑顔で話した。
 「ああ、これがピースなのだ」。大館市の石田ローズガーデンで3度ほど見たことがあった。バラを愛した故石田博英(元代議士・労相、旧二ツ井町響出身)が最初に惚れたバラと言われていること、1945年春のベルリン陥落とヒトラー政権滅亡にちなんで名付けられたこと、の二つを知って、記憶に残っていた。
 満開の「ピース」を目の当たりにして、再び郷土が生んだ政治家・石田と、彼の平和へのメッセージを込めたバラへの思いを感じた。そして、今の日本の平和、政治家の情熱を少しばかり考えた。
 わが家の軒先で、オーニソガラムが白い可憐な花をいっぱいにつけている。能代市常盤の農家有志が栽培したユリ科の花で、先月末の「けやき公園市民音楽祭」の会場で買った鉢植えが、遅れ気味に満開となった。星形の花をたくさん咲かせるから「ベツレヘムの星」、稲穂のような蕾をつけながら咲くから「子宝草」ともいうそう。別名に「なるほど」と感心する。
 県立大短期大学部の学生らと取り組んできた事業の一つが実を結び特産品化に繋がればと期待を膨らませる。同時に、地域に農村活性化の星が輝き、子宝が恵まれればとの願いを花に託そう。
 能代山本は里にも山にも、公園にも庭にも軒先にも花々が次々と咲き競っている。栽培をするでもなく、勉強するでもなく、「花の素人」ではあるが、それでも花に目が行き、美しさに感嘆したり心が洗われたりするのはどうしてだろうか。
 知人が自宅に咲いた真っ赤とピンクと白の立葵を米袋に入れて根っこごと持ってきた。彼の集落はほとんどの家が立葵を育て、「立葵街道」といってもいいぐらいだ。彼には毎年の当たり前の風景だったが、その見事さを褒め、「欲しい」と言ったことがある。それを思い出して、花の輪を広げようとしたのだ。
 地域の花は人と人の繋がりをつくる。(八)


樹木はどう見ているのだろう

(6月21日)

 先輩が薦めた新刊「千年樹(せんねんじゅ)」(荻原浩著、集英社)は、境内に立つ樹齢千年のクスノキの脇で繰り返される人間ドラマを交錯させた作品だった。それを読んだ影響か、地域の新緑が目映(まばゆ)く「生」を強く感じるためか、このごろ大木や巨樹、街路樹に目が行く。
 藤里町大沢の「水神様(すいじんさま)の大ケヤキ」は千年木で、知る人ぞ知る県の天然記念物だが、大沢地区では家々にも立派な樹木が残り、道路沿いの大きなケヤキは街路樹のように連なり、先日、車で通って心が洗われた。
 一方で、能代市内の知人の家の前を通ると、重厚な家の雰囲気が一変していて寂しさを感じた。松くい虫に襲われて、やむなく伐採処理せざるを得なかったようだが、仮に幼木を植えたとしても、歴史ある家の風景に戻るには気の遠くなる年月が必要であろう。
 木を切るのは簡単である。しかし、街や地域の木を残すのは大変だと思う。それで、能代市寿域長根の天理教阿仁分教場。都市化した国道101号沿いに緑の風景を守っているが、道路の拡幅工事で木々はどうなってしまうのだろう。
 能代市内をめぐると、街路樹や施設内で安らぎを与える樹木もさまざまであることを知った。夏へ進むこの季節、強い日差しを避けて木陰がほしくなるが、立派に育ちながら木陰にならない街路樹や施設内樹木が目立つのだ。
 何カ月か前、知人が「ああいうのって、いいの」と聞いてきた。「銀杏(いちょう)やプラタナスを剪定(せんてい)したのはいいけれど、ブツブツと切って、木がかわいそうじゃない?」とも。
 なるほど新緑の時期になると、これが樹木かという緑の付き具合だったり、モヒカン頭のようだったり、頭でっかちの緑でツリーらしさがなかったり…。「緑の季節」には不似合いだ。木陰はあるかないかで、葉擦(はず)れの音は聞こえそうもない。
 大きくなりすぎ障害になっている、七夕運行に邪魔だ、落ち葉の処理が大変、アメシロ被害対策―など事情はあるにせよ、美観が失われすぎては住む人を悲しくさせる。訪れる人を驚かせる。
 樹木の側は、地域を、われわれを、どんなふうに見ているのだろうか。(八)


けねオトーサンにやさしく

(6月17日)

 隣席の中年女性が、今まで使っていた方言を捨て、標準語で「うるさくしてごめんなさいね」と軽く会釈して店を出ていった。
 心に響く歌をBGMで流す落ち着いた「大人の店」で、彼女と仲間は「青春とはいつまでいうのだろうか。中年になった今でも当てはまるか」とか「今思えば何が何だか分からない時代が、青春だった」などと大声で話していたから、帰り際に少し反省したらしい。
 酔った勢いでガンガン話すものだから、彼女の言葉は嫌でも耳に入ってきたが、こびり付いたのが、「きゃねぐ、されればだめだぁ〜」。「きゃね、これ本荘弁、わかるぅ?」と同年代の男性に言い寄っていた。
 由利本荘も能代山本も同じ秋田県だから、方言にそれほど違いはないはずで、彼女の会話のニュアンスなどから「きゃね」は能代山本で言う「けね」ではないのかと推測した。
 「けね」は「採録・能代弁」(冨波良一編)によると、(1)元気のない(2)体力気力が欠けた様(3)ひ弱な(4)ガンバリがきかない(5)ダメな状態―とあり、使用例として「えちにがおけで、けねナー」(もうへばっちまって、弱いな)を挙げている。
 物をくれない・あげないを言う「けね」、簡単である・造作ないの意味にも使う「それだけ、けねじゃぁ」の「けね」もあるが、本荘の「きゃね」に近い言い方の「けね」は、体力気力の衰えを指す方言と思われる。
 さて、本荘の中年女性が言った「きゃねぐ、されればだめだぁ〜」には、きょう17日は6月第3日曜日の「父の日」が絡んでいた。「けね、ぐ、されれば、だめ」。「いるかいなかといった存在にされては、いけません」。妻が夫を、娘や息子が父を軽くみている・扱っている状態であってはよくないと指摘、「あんた、頑張らなくっちゃ」と奮起を促しているように聞こえた。言われた男性に反論はなかった。黙るしかなかったか。
 でもと思う。中高年になって誰もが、体力も気力もあって、元気で頑張れて、頼りがいのある存在ではない。むしろ、その逆が多いのでは。けねぐなったオトーサンに、労(ねぎら)いの言葉をかけてやって、と願う。(八)


野菜苗、あれもこれもで

(6月15日)

 わが家のもどきの家庭菜園には手をかけず口を出しているだけだが、植える苗を先日、能代市内のDIY店で探すと、沖縄特産として知られるゴーヤ(苦瓜=にがうり=)に目がいった。
 食の広域化・グローバル化で日本全国、世界各国の料理を口に入れることのできる時代。能代市内にもゴーヤを使った沖縄料理のチャンプルーを提供する食堂や居酒屋がある。知らずしらずのうちにゴーヤの苦味に抵抗を感じなくなり、さらに太陽の恵みをいっぱいに吸収し健康にいいとあって、「好む野菜」の一つになった。
 それで、野菜苗のコーナーでゴーヤを手にしたが、そこに知人が現れ、栽培のノウハウと収穫の具合を教えてくれた。南国の野菜は、北国でも人気であることを知った。わが家で栽培したら上手く成るだろうか。
 次に目が行ったのは、水なす。大阪は泉州の特産で、たっぷりと水分を含み、皮と実はやわらかい。浅漬けは、夏にうってつけだ。水なすも、北国の食のテーブルに出るようになったし、農産物直売所にも登場する。わが家で植えたらみずみずしくできるだろうか。
 唐辛子系の苗コーナーに移ると、万願寺(まんがんじ)唐辛子。京野菜で、友人が「貰(もら)い物のおすそ分け」と去年くれたのは15〜20センチぐらいはあったろうか。網焼きと天ぷらにして食べたが、予想に反してやわらかく、しかも辛くなく甘みがあった。自家栽培でもおいしいだろうか。
 万願寺の近くには超激辛のハバネロ。八峰産を昨年、塩焼きで試食したが、中南米原産品種はわが地方でもホットすぎて、翌日胃が焼けたような感じ。でも、栽培はとてもとても。
 気がつくと、わが地方は野菜の種も苗も全国・世界の渦の中にあるのだ。美味なるもの、珍しいもの。それはそれで栽培することも食することも楽しいだろうが、何だか野菜から「地元」や「伝統」がなくなっているような気がする。地域の伝統野菜の復活が評価されてきているのに。
 と感じていると、直売所にセリがあった。「地産地消のキリタンポ・だまこ」に湯沢産や宮城産を用意しなければならなかったが、ようやくわが産地が戻りつつあるのか。(八)


過払い金回収2億の報告

(6月12日)

 先月末に行われた能代ひまわり法律基金事務所の弁護士引き継ぎ披露で、離任した有坂秀樹弁護士のある報告に驚いた。一昨年4月末の事務所開業から2年1カ月で過払い金の回収が2億円を超えたことだ。
 過払い金とは、金融業者に返しすぎたお金のこと。貸金業者が定める利率と利息制限法の利率に差があるため、過払いが発生するケースがあり、気付かないでいると払い損になる。
 今は手軽に借金できる時代で、金融業者が「ご利用は計画的に」と呼びかけても享楽や消費にキャッシングを重ねる人は多い。また、不意の出費に手持ちがなかったり生活資金が回らず借りたはいいが、返済が滞って別の業者からも金を借り、利息に押しつぶされる人も少なくない。そこに「過払い」は重くのしかかっていたのだ。
 「能代ひまわり」が、過払い金を2億円以上も回収したことは、日弁連の援助を得て全国で43番目、東北で9番目に開設した公設事務所の意義と役割を示すものと思う。
 払い過ぎの重圧を解き放ち、苦労してためたお金を手元に戻させることができるのだから、素人ではとても解決できない事件に応じてくれるのだから…。住民にとって、身近に弁護士がいることの安心は大きい。開業からの総相談数は553件で、このうちクレジット・サラ金相談は280件。
 一方で、表面化した過払いの額の多さに暗鬱(あんうつ)になった。
 「能代ひまわり」のほかにも能代には弁護士事務所があり、秋田市には能代山本出身弁護士もいる。そこにもクレジット・サラ金の相談が持ちかけられ、過払い金請求が行われたとみられる。
 とすれば、能代山本地域の多重債務者、過払い問題は、「能代ひまわり」の2年余の報告以上に深刻であるといわざるを得ないではないか。
 地域経済はなお厳しい局面にあり、働く人・働きたいけれど働けない人の叫びが聞こえてくる。苦しみから逃れるためかギャンブルと浪費にはまり、泥沼に陥った悲鳴もある。経済苦は一家離散、失踪、自殺、孤独死などにつながる
 法的な「市民の味方」に期待は大きい。(八)


爺さまも婆さまもロックだよ

(6月9日)

 親戚(しんせき)と懇談すると、地域の防犯に話題が及んだ。「おらほ、でも空き巣あって…」と一人が話したのが発端。
 具体的に、いつどこでどんな風に、被害はどれほど、までは話さず、確たる情報は把握してはいないようだったが、被害に遭った家は特定されており、小集落で空き巣が発生したことは事実である。
 「おらほ、でも」ということは、「おらほ」以外の近隣の地域で以前に、あるいはごく最近、空き巣があったという情報が寄せられていて、警戒の必要性を感じていたということと理解した。聞けば、「駐在所だより」などの広報でも注意を呼びかけていたらしい。しかし、それでも身近で発生したわけだ。
 親類の娘は、「だいたい、みんなカギを掛けないで出かけるものぉ〜。入られるよね」と親世代や祖父母世代にあきれた。地方の中核都市で学びアパート暮らしをした彼女からすれば、田舎の防犯が緩いと映るのだろう。
 で、彼女は次の点も指摘した。農業用軽トラックであれ、ワゴン車であれ、高級乗用車であれ、周りの男たちは車のロックをしない。それどころか、ロックしない車にセカンドバッグを置いたり、ダッシュボード周辺に小銭をジャラジャラと置いている。「あれじゃぁ、盗まれてもしょうがないね」と。傍らにいた父親は、ロックしてもドアのガラスを破られて盗(と)られることもあるだろうと付け加えた。
 のどかで、隣近所や集落の繋(つな)がりの濃い地方の農村部では、いや地方の住宅街でも、盗難は少ないと言われてきた。家に悪さをする人はいないはず、まして年寄り世帯にはという“性善説”に立ち、カギを掛けなくても暮らしは安心だった時代が続いてきた。
 しかし、現実は地域の安心が切り刻まれて、不安が広がるのが今だ。ことし2月、三種町の独り暮らし老人が強盗に襲われた。犯人は空き巣狙いで無施錠の玄関から侵入、人がいたので脅した。この事件がその象徴である。
 農村の、地方の、高齢者の治安をもう一度考えたい。きょう6月9日は我が家のカギを見直すという「ロックの日」。爺(じ)さまも婆(ば)さまもロックを忘れずに、です。(八)


本に「品位」を説かれるけれど

(6月5日)

 気がつくと、「品格」「品位」の本が机の周りに増えていた。話題の本で、そのうちネタのヒントになるだろうと購入したが、読みかけ・積ん読で、読了は一冊もない。
 ?250万部を突破した「国家の品格」(藤原正彦、新潮新書)?男が誇りを取り戻せば、きっとこの国は凛とする!との惹句に手が伸びた「男の品格」(川北義則、PHP研究所)?危機に立つ日本の民主主義をどう救うかを示した警世の書と紹介された「政治の品位」(内田満、東信堂)?強く、優しく、美しい女性になるための66の法則が載った「女性の品格」(坂東眞理子、PHP新書)――の4冊である。
 著者が品格・品位をテーマに国家や政治、男と女を書かざるを得なかったのは、そしてその本が売れるのは、自分もまたその本が気になるのは、あちこちに品位・品格のない行動が目立っているからだろうか。
 「国家の品格」では、品格ある国家の指標に▽独立不羈▽高い道徳▽美しい田園▽天才の輩出――の四つ挙げるが、農民が安心して働いている証拠である美しい田園が保たれているべきとの主張には、秋田にいるからこそ共感する。
 「政治の品位」では、「最近のわが国の政治家たちの言葉の貧しさ、貧相さは、目に余る状態というべきでしょう」の記述に同感した。わが地域にも当てはまるゆえに?
 元内閣府男女共同参画室長が著した「女の品格」では沈黙。「凛とした女性」となるためには、仲間だけで群れない、怒りをすぐに顔に出さない、プライバシーを詮索しない、聞き上手になる、心を込めてほめる、友人知人の悪口を言わない、感謝はすぐに表す、目の前の仕事に振り回されない、時間を守る、うわべに惑わされない、過去にこだわらない…と続く。
 さて、「男の品格」では、「男たちよ、もう一度ゆとりを取り戻し、背筋をしゃんと伸ばさないか」と叱咤、「ゆとり心」「遊び心」を身につけることが、男としての品格・品性を磨くと説く。
 そうはいわれても…。自分も彼・彼女らも地方政治はやはり品格なしか。いや、多少なりとも磨くべし。(八)