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 全国高校野球選手権大会に能代商が出場を決めたことで、能代山本では甲子園への注目がが然高まっている。能代勢は、能代商が昭和60年と今回、能代が昭和38、52、53年、平成4年にそれぞれ甲子園の土を踏んだ。かつての高校球児や指導者に「甲子園」の思い出と能代商へのエールを語ってもらった。


小野 平さん(上)

中嶋 健志さん

岩井  聰さん

太田 久さん(上)

大友 尚樹さん
元能代商1番打者 岡本 丈義さん(43)

item13a1 ■KKコンビに沸く
 
その年の甲子園は、PL学園(大阪)の清原和博、桑田真澄の「KKコンビ」の最後の夏に沸き返った。
 「テレビでしか見たことのなかった清原、桑田がいた。すごい人気でね。開会式の待ち時間、室内練習場で待機していたんですが、彼らはファンがものすごいもんだから、出入り口が違っていた。別枠の扱いだった」
 昭和60年に初出場した能代商の1番打者で二塁手の岡本丈義さん(43)は、甲子園で印象に残っているのは何かとの質問に真っ先にそう答えた。公式練習で初めて入った甲子園球場の広さにも圧倒された。「5万人以上が入る球場でプレーしたことなんてもちろんなかったし、田舎もんだったんだろうね」と笑う。
 試合日の8月12日は雨だった。「朝、宿舎を出て甲子園球場の近くのグラウンドで練習したが、雨で練習をそこそこに切り上げた。中止になるんじゃないかと思うぐらい降っていた」。球場控え室のテレビで見ていた第1試合の宇部商(山口)―銚子商(千葉)が、いい試合だったとの記憶がある。次が自分たちの出番。雨天続行に「ヨシ」と気持ちを引き締めたという。
 能代商は、秋田大会の決勝で秋田を6―0で下し初優勝を飾った。岡本さんのバットは、秋田大会で快音を発し続ける。計5試合で21打数12安打と打率は5割を超え、小野平監督が最も信頼を置くバッターだった。
■注目の対決は三振
 
甲子園初戦の相手・久留米商(福岡)のエースは右下手投げの秋吉昭二。小野監督もチームメートも注目した初打席で、岡本さんはフルカウントからファウルで粘り、外角いっぱいのカーブをカットしようとして空振り三振。「打席に立つとピッチャーがとても小さく感じられた。でも小さいのに球はビュンビュンと来る。どうしてなんだろうと思ったが、甲子園のバックスクリーンが大きすぎて、いつもよりピッチャーが小さく見えていたんですね」。
 4回打席に立ち、ヒットは3回2死から放った三ゴロ内野安打1本のみ。外野に飛んだのは6回の3打席目のライトフライ。「ボールの下をこすった」という当たりだった。「とにかく試合のテンポが速くて、リズムをつくれなかった。緊張したわけでないが、自分たちの野球に徹することができなかったのは、どこか我を忘れていたからかも。0―4で完敗だったから涙も出なかった」と振り返る。岡本さんは高校卒業後、秋田相互銀行、ヨークベニマルに入り社会人野球で活躍。都市対抗野球に出場し後楽園や東京ドームでもプレーした。
■夢をあきらめず
 
25年ぶりの甲子園出場を決めた後輩たちの活躍を喜び、「粘り強く、とてもいいチーム。自分たちの持ち味を十二分に生かし、普段着の野球を心掛けてほしい」と自らの体験を踏まえエールを送る。大阪入りする前の7月29日の記者会見で後輩たちが口にした「全国制覇」の言葉に岡本さんは、驚くとともに、いたく感心もした。
 「自分たちの時は考えもしなかったこと。甲子園出場自体が夢みたいなもので、県大会で優勝した時も甲子園に行くという実感はなかった。欲がなかったんですね。ただ、夢はあきらめてしまったら、その時点で終わり。一緒にやってきた仲間、3年間指導してくれた監督を信じて、自分たちの夢に向かってほしい」と語った。

=このシリーズおわり。伊藤 仁、石田 公、川尻昭吾が担当しました。

元能代右翼手 岩井  聰さん(65)

item13a 能代勢初の甲子園出場は、昭和38年とほぼ半世紀前にさかのぼる。その年、甲子園大会は45回大会を記念して各都道府県に出場枠が拡大され、秋田大会の決勝は、春の選抜出場校の大曲農と能代の対戦となった。
■ウイニング捕球
 「ボールが来るのが待ち遠しくて、はしごを掛けてでも捕りたい気分だった」。9回裏、大曲農の最終バッターが打ったライトフライを能代の右翼手、岩井聰さん(65)はボールの落下にもどかしさを覚えながらキャッチ。6―4で接戦を制して初優勝を飾った。
 能代のエースは、後にプロ野球で活躍する簾内政雄投手。秋田市勢以外の夏の甲子園出場は初めてのことだった。就任間もない太田久監督が甲子園を狙って3年がかりで作ったチームであり、「とにかく練習はきつかった。親にもそんなにたたかれたことはなかったほど厳しかった」。
 能代は、8月2日に大阪入り。宿舎となった西宮市内の旅館は、巨人の水原茂元監督の定宿だったという。開会式は7日。「南の高校から入場し能代は45番目。宙に浮いている感じでしたね」。入場行進曲は今と変わらないが、退場の時に倍賞千恵子の「下町の太陽」が流れていたのが妙に印象に残っている。
■大勝で初戦突破
 初戦は12日の第3試合で、相手は長浜北(滋賀)。能代と同じ初出場だった。1番打者でもある岩井さんの初打席はセンター前ヒット。能代打線は初回に4点を先制すると、2回に2点、3回にも5点を追加し、序盤で大きく引き離し、12―1で圧勝した。岩井さんはスクイズも決め、この試合5打数1安打1打点、1盗塁。大勝にも「余裕なんてなかった。甲子園は魔物がすむところと言われていたし、何があるか分からない。無我夢中でした」と話す。
 2回戦の相手は岡山東商(岡山)。頼みの簾内が肩の不調から途中で降板し、1―5で敗れた。「ピッチャーはうちが上だったが、総合力では相手が上。負けはしたものの、やることはやったと満足感があった」。能代ナインに涙はなく、さわやかに球場を後にしたという。
 実は、甲子園大会に出場していながら、能代は甲子園球場では1度も試合を経験できなかった。3回戦までは甲子園球場と西宮球場の2会場に分かれ、不運にも能代は1、2回戦とも西宮球場が会場だった。「甲子園で試合がしたい。勝って甲子園に行こう」が選手たちの目標になっていた。このため、「西宮だから、グラウンドの土は持ってこなかったよ」と笑う。
■神戸牛に大感激
 岩井さんは大阪入り後、生水を飲んで腹痛を覚え、同じ症状の後輩とともに病院で治療を受けた。滞在中、プロ野球のナイターゲームを観戦したのも思い出の一つで、「観たことなかったから、とてもきれいでね」。秋田県人会の招待で神戸牛のすき焼きもごちそうになった。「丸テーブルを囲んで、何度もおかわりをした。本当においしくて、世の中にこんなにうまいものがあるのかと感激して食べた」。
 47年前の甲子園は、今でも記憶が鮮明で、当時の努力を考えればなんでもできると、その後の人生の支えにもなったという。
 「秋田大会決勝の時は、能代一中同期会の総会を開いていたが、優勝を知って大いに盛り上がった。能代商は私も練習を見たことがあるが、とても熱心ないいチーム。ぜひ、甲子園で校歌を歌ってほしい」と期待を寄せた。

元能代4番打者 平川浩司さん(51)

item13 昭和52年、秋田、青森両県の奥羽大会決勝で能代は2―1で秋田商を下し、14年ぶりの甲子園を決めた。この年、能代は優勝候補の本命。2年生エースの豪腕・高松直志投手を擁し、そして何よりも強力打線を誇った。
 「前の年は準決勝で敗れたが、3年生はバッテリーだけでレギュラー7人がそっくり残った。高松もおり、このメンバーなら甲子園に行けると言われた。野球部のグラウンドも樽子山から高塙に移り、練習は毎日夜遅くまで続き、本当に厳しかった」。そう振り返るのは、強力打線の4番打者で、一塁手の平川浩司さん(51)だ。
■猛暑の第3試合
 甲子園での初戦は大会2日目の8月9日第3試合。相手は北関東代表の高崎商(群馬)。かんかん照りに球場はむんむんと暑く、三塁側ダッグアウトでは後ろで扇風機が回っていたものの、熱風をまきちらすだけ。直射日光でベンチが熱せられ、タオルを敷かなければ座ってられないほどだった。
 また、ファウルグラウンドの広さも印象に残っており、「守りで一塁まで走っていくのが遠い」と感じた。おまけに、第3試合ともなれば、グラウンドがだいぶ荒れていた。一塁ベース付近は土がえぐられ、守備につくとスパイクが沈み、「砂場」みたいな感じだったという。
■初回先制で活気
 この試合、能代は初回に1死三塁からスクイズを決め、先取点を奪うスタート。平川さんもこの回の初打席でライト前ヒットを放ち、ベンチは「いけいけムード」に活気づいた。しかし、その裏、スクイズで同点とされ、2回に2点、4回に1点を奪われ、じわじわと引き離された。5回には制球に苦しむ高松が猛攻を受け、2点本塁打などで4点を失った。能代は7回に1点を返したものの、2―10で大敗。高崎商の14安打に対し、能代も9安打と打線に当たりはあったが、なにせつながりを欠き、7残塁と流れを引き戻すことができなかった。
 平川さんの2打席目はサードフライ、3打席目が三振、4打席目がライトフライ。三振は、「インコース低めの打てる球」を見逃したものという。「とにかく、守っている時間が長く、あっという間に終わってしまった。高松があんなに打たれたのは初めてのことだし、チームもこんな点差で負けたことはなかった。相手の実力が上だった」と全国レベルの高さを思い知らされたという。
 能代に帰ってから、自分たちの試合をビデオを見て振り返ったが、「どこか普段と違っていた。相手の投手も決して打てない球ではなかったし、雰囲気に飲み込まれていたんでしょう。これが甲子園なんだなと思った」。球場の広さに観客の多さと大歓声。グラウンドに立っていた時は、周りを見渡す余裕すらなかったという。
■周りに感謝持ち
 そうした自らの経験を踏まえ、平川さんは「能代商の選手たちは、自分たちの野球をやることに徹してほしい。甲子園に来たことに対し、家族や周りの人たちへの感謝の気持ちを持ってプレーするならば、いい結果が出ると思う。秋田商や金足農など強豪校を破って出場できたことに自信をもってほしい」とエールを送る。
 高校卒業後、東洋大でも野球を続けた。しかし、平川さんにとって甲子園はやはり特別な思い出になっている。「誰もがいけるものじゃない。甲子園に出場できたことを光栄に思うし、誇りに思う」と語った。

元能代右翼手 大友 尚樹さん(49)
 ■狙っても難しい
元能代一塁手 菊地 俊平さん(35)
 平成4年8月14日、第74回甲子園大会の1回戦・能代―佐賀東。当時、
元能代商主将 中嶋 健志さん(42)
■4回、救援で登板
元能代高監督 太田 久さん(73)下
 「東北の星飛雄馬」と称された高松直志投手を擁して昭和52、53年にも夏の甲子園に出場した。足を高々と上げ、速球を投げ込む高松投手の投球は鮮烈だった。
元能代高監督 太田 久さん(73)上
  昭和38年、52年、53年に能代高を率いて甲子園で采配(さいはい)を振るった。
元監督 小野 平さん(61)下

元監督 小野 平さん(61)上