2012.記者メモ

2011.記者メモ

2010.記者メモ

 

「母への手紙」の縁

 70歳の知人に出会うと、地域の話題に及んで、わが北羽新報の紙面、記事についてあれこれ批評をいただく。痛いところを突かれたり、面映ゆいお褒めがあったり。さらには過去に取材した記者の「その後」の心配までしてくれ、感謝である。
 その彼が、本紙の連載4コマ漫画「アッパレ君」のファンだった。「先日のあれ、面白かった」「作者(きざきのぼる氏=神奈川県横須賀市)はこの頃調子がいいのでは」などと、こちらが記憶にない作品、あまり気に留めていない作者の状況を熱心に語るのだ。
 「アッパレ君」は昭和62(1987)年からの連載。年末には8コマのワイドな新春マンガも届くが、今年は風邪を引いて体調不良で用意できないとのこと。26年にわたって書き続け年齢を重ねたことを考えると、やむを得ない。しかし、知人のように楽しみにしている読者もいる。それに正月の紙面に漫画がなければ寂しい。
 困った担当者から相談を受けて、大仙市の佐藤清勇さん(62)の顔が浮かんだ。
 三種町の橋本五郎文庫運営委員会が初めて企画した「母への手紙」作文コンクールで、優秀賞に選ばれたのが佐藤さん。「あぜ道のおしめ替え」と題した手紙は、母親から聞かされた田植え時にあぜ道の草の上でおしめを替えてもらった話と、母が脳梗塞で倒れ、今度は自分がおしめを替えることになった体験を、感情のこもった美しい秋田弁で綴っていた。
 表彰式で佐藤さんと話すと、作文の文体と同様にやさしくほんわかとした人柄だった。そして、「絶滅あきた暮らし図鑑」というほのぼのとして笑える4コマ漫画集を出版していたことを知った。そこで、正月漫画を頼んだところ、快く引き受けてくれた。お楽しみに(第5集8面)。
 「母への手紙」では、最優秀賞の茨城県潮来市の高橋克己さんから手紙全文を載せたことで編集局にお礼の手紙が届いた。「中央の、東京の、大都市の鏡としてこの国のあり方を問うのは地方新聞の役目だ」との期待をも寄せて。
 橋本文庫の「母への手紙」は、小紙にまで縁を取り持った。年の瀬にしみじみ、ありがたく思う。(2013.12.31 八代 保)

 


 

 

街歩きと「月刊バスケ」

 秋の晴れ間、たまには街歩きをしてみようと、畠町・柳町・駅前通りをウロウロした。途中、能代バスケミュージアムに立ち寄ると、専門誌「月刊バスケットボール」のバックナンバーがずらり。懐かしがって何冊か眺めているうちに、そういえばあの記事あるかな、と腰を据えて探してみた。
 昭和62年の全国高校選抜バスケットボール大会で、私は能代工の全国優勝を初めて取材した。今ではウインターカップとして知られる大会だが、当時は春の開催で、会場も代々木第2体育館だった。
 前の年、能代工は8年ぶりの無冠に終わっていた。入社2年目のスポーツ担当だった私は、社内で不本意ながら「負け男」のらく印を押された。それだけに、優勝は待ちに待った瞬間だった。エース三浦裕司や佐藤信長(現・能代工監督)ら中心選手たちの戦いぶりを意気揚々と記事にした。
 他紙と読み比べてみて、自分の取材の足りなさや稚拙な表現力を恥じることはあるが、あの時の能代工の優勝をリポートした月刊バスケの記事には驚嘆した。それは、まったく思いもしなかった斬新な視点の記事だった。
 「ジャンプ力…なし、シュート…へた、足…鈍足。そんな主将が能代工の大黒柱に」。驚くような見出しで月刊バスケがスポットを当てたのは、エース級ではなく、主将でありながら控え選手の鈴木裕志だった。鈴木のあだ名は「ウス」、見るからに鈍くさかった。しかし、どんなプレーにも一生懸命打ち込み、ベンチから声を出し続けた。エリート集団の中で存在感を発揮し、チームをまとめ上げるコツコツ努力型の彼にこそ、強い能代工の「原点」を見た、と記事は結んでいた。
 プレーヤーとしては平凡だが苦労人の主将を通じてチームの特徴を浮き彫りにし、名門・能代工の奥深くにも迫ろうとしていた。私は強烈に嫉妬する一方、いつか、こんな記事が書けるようになりたいと願った。
 記事のコピーをいただき、改めて読み直して、ふと思った。たぶん今も書けないだろうな、と。そして、こうは書かない、とも思った。いずれにしても、あれから届かぬ何かをいまだに求めている。(2013.12.30 伊藤 仁)

 


 

「安」の一文字

 京都・清水寺で大書された今年の漢字は「輪」だった。各地の自然災害へ支援の輪が広がったり、2020東京五輪開催決定などで国民が「輪」になって歓喜に沸いたことが理由のようだ。
 発表前、アベノミクスで円安が進み、夏の参院選大勝で衆参のねじれも解消し政権安定だから、「安」あたりかと勝手に予想したが、はずれ。安倍政権絡みでは人気ドラマのせりふ「倍返し」と合わせ、「倍」に投じた人も多かったとか。
 その安倍さんが2度目の政権を握り1年。特定秘密保護法案の強行採決、26日の靖国参拝など野党、近隣国の反発に動じないあたりは、第1次退陣後の健康不安を払拭(ふっしょく)し、強い“シンゾウ”をお持ちだ。ただ、アベノミクスで都市部は景気回復に転じてきたようだが、地方では“牛歩”。それどころか、円安で輸入品の価格が高騰、来春の消費増税もあり、明るい兆しは実感できていない。
 年の瀬のこの時期、新聞をめくりながら1年の「ダイジェスト」をまとめている。振り返ってみると、明るい話題もあったものの、夏の豪雨、秋の台風接近に伴う大雨で水害や土砂災害が多い年だった。その被害状況が、何日も紙面を埋めている。
 水害は、三種町山本地域の三種川流域や能代市松長布地区の悪土川流域など常襲箇所もあり、住民の抜本的対策を求める声は切実だ。土砂災害は藤里町の県道西目屋二ツ井線沿いで多発、秋田デスティネーションキャンペーン、世界自然遺産登録20周年で活況が期待された白神山地周辺観光の足にブレーキを掛けた。
 今年は本県の仙北市田沢湖も含め、伊豆大島など全国で甚大な土砂災害が相次ぎ、多くの生命が奪われ、自然の恐ろしさを再認識させられた。局地的なケースが多く、もはや異常気象という言葉で片付けられる事態ではなくなった。
 災害の都度、安全な地域構築の重要性が強調される。来年は能代山本3市町で首長・議員選挙がある。住む人へ「安全・安心」を提供するため具体的な政策は——。「安」の一文字は、たった1年を表すのではなく、永遠のテーマだったと自戒した。(2013.12.29 池端 雅彦)

 


 

「安心ノート」の備え

 「元気なうちに前もって伝えるべきことを書き留めておこう」という「安心ノート」。能代市二ツ井町の社会福祉法人・二ツ井ふくし会が作成に取り組む今話題の“終活”だ。
 死んだ時のことをあれこれ言うと「縁起でもない。そんな話をすると、早死にする」「はんかくしぇ話をするな」と、世の中にタブー視する向きがある。しかし、急激な高齢化社会が進む中で避けて通れぬ問題だろう。
 エンディングノートとも言われる「安心ノート」。ふくし会は高齢化社会と核家族化が進む中で、死後の対応に不安を抱え、いざその時に戸惑う家族の姿を目の当たりにし、不安と心配を少しでも和らげようと、作成に取り組んだ。
 関係者は「さまざまな名称、内容のノートがある中で簡単に書き込めるよう工夫して項目はある程度絞り込んだ」と語る。履歴や大切な思い出、家族・親戚の家系図と連絡先(住所、氏名)、延命治療や亡くなった時の対応──などがある。
 ノートを完璧にするため関係団体を参集した検討委員会が10月に開かれた。70代の女性が「これなら遠くに住む娘が何かあっても対応できる」と発言し、全員がうなずき作成に賛同した。ただし「夫婦であっても生存中に見られるのはイヤ。保管場所の工夫と、タイミングの良い公開ができれば」との意見に出席者は思わず苦笑した。
 そして「臨終間際や病人の看護で疲れ切った家族の心中は複雑でさまざまな都合が去来、ノート通りに事が運ぶか」との疑問も出た。難しい対応だ。要はどこまで遺志を理解して尊厳を守り慈悲をもって接するか。これこそ残された人が真摯に向き合う問題だ。
 今夏、中学校の同期会で配布されたクラス名簿に二十数人の故人の名前があった。鬼籍に入った先輩記者も多い。団塊の“すそ野”世代の自分も「いつまでも」との歳を迎え「生きている」より「生かされている自分」を改めて感じた。
 間もなく一休さんの「正月は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」(狂歌)。とはいえ「備えあれば憂い無し」の諺もある。「安心ノート」の完成、配布も間近い。(2013.12.28 武田 幸一)

 


 

大家が設計 能代公園

 恥ずかしながら、それまで知らなかった。明治、大正時代に活躍した公園設計の第一人者、「長岡安平」(1842〜1925年)のこと。近代公園の先駆者と称される人物が能代公園を設計していたことを。
 そこで調べた。長岡は、大村藩彼杵(そのぎ)村(長崎県大村市)に生まれ、後に東京府知事、衆院議長となる4歳年上の郷土の先輩、楠本正隆が新潟県令時に建設した白山公園に関係したとされる。楠本が府知事に着任、明治11年に府の公園係の技術者に任命された。同22年開園の坂本町公園は東京で最初の市街地小公園として知られる。
 本県にも縁が深く、千秋公園(明治29年)、横手公園(同35年)、大仙市の池田氏庭園など数々手掛けている。中でも東京以外では初めての仕事だった千秋公園の設計は有名。これを機に名声が高まり、金沢市の兼六園改修工事設計(同44年)など仕事が全国に広がった。
 能代公園は明治35年の設計。当時の詳細は分からなかったが、残っている「秋田県能代山本公園設計図」には確かに現在の公園の姿が描かれていた。
 100年以上が経過した現在の能代公園は、市民に手入れ不足が指摘されており、能代市が環境整備に乗り出した。「市の花」である桜の樹勢回復や更新を計画。市の担当職員は「今のままじゃ、この人(長岡)にも申し訳ない」と本音を漏らす。
 設計者の長岡は、意外にも桜の花を好まなかった。それで千秋公園では程よく配植した。しかし「人々の望むがままに全園を桜の林にしてしまった」。これを喜んでいなかったが、久しぶりに訪れた同園で桜の美しさに驚嘆。積極的に植栽するにようになった。
 「私は心から各地に、外来の客を迎うるに足る桜花の名所と観光に便な設備とを備へられんことを希望する」と言葉を残し、設計した公園には桜の名所も多い。
 江戸時代後期の文献にある5丈8尺の大型七夕が復活し、「木都能代」を象徴する旧料亭金勇が供用開始。能代の歴史や文化、伝統に目を向け、観光振興や地域活性化に結び付けようとする動きが活発だ。そこに能代公園の存在も忘れてならないのではないか。長岡を知り、そう考えた。
(2013.12.27 工藤 剛起) 


 

世界王者誕生…余話

 4月にプロボクシング・WBCスーパーフェザー級タイトルマッチを取材し、三種町出身の三浦隆司選手が王座に就く瞬間を目にした。
 実は数年前に、世界チャンピオンを目指すプロボクサーがいると聞いて三浦選手を取材したことがある。まだ、日本チャンピオンになる前だ。
 「世界チャンピオンに」「ベルトを獲るだけでなく、何回防衛したかが重要──」。三浦選手はそんなことを話していたと記憶しているが、それよりも印象的だったのは、意外なほど「普通の青年」だということ。
 アスリートであれ指導者であれ、ある程度の実績を残した人であれば多くの場合、勝負師の厳しさがにじみ出るというか、どこか人を脅かすような迫力を感じさせることが多いが、三浦選手といえば、笑顔はほとんど見せないが、かといって予期していたようなとげとげしさや鋭さは皆無。言葉も余計なことは言わないが、いたって温かな性格が透けて見えるような穏やかさ──それが強く記憶に残っている。
 4月の世界挑戦の取材は、そんな「あの時の青年」を応援もできる機会とあって喜び勇んで出掛けたが、これがまた珍道中。地元ファンを乗せ三種町を出発するのは、アルコールを楽しみながら行きたい人が乗り込む「アルコールバス」、そうでない人が乗る「ノンアルコールバス」の2台の大型バス。早朝、一路、東京・国技館へ──と思いきや、出発して500㍍も行かずにすぐにコンビニに立ち寄った時に嫌な予感が。「アルコールを飲む=出るものは出る」という自然の摂理のため、トイレ休憩することに。全サービスエリアを制覇する勢いだ。
 折しも前日は強風のため、東北道が一部通行止めで一般道に降りる羽目になり、そのせいで試合に間に合うかどうか不安が募る中、それでもトイレタイムは欠かせない。「まさか、応援するわれわれがT(トイレ)KOか?」。結局、ギリギリ間に合ったのだが、試合内容と同様、あるいはそれ以上にハラハラの旅。今思えばそれもまた「いい経験」だったのか…。

 ともあれ、大みそかには三浦選手の2度目の防衛戦。吉報を待ちたい。
                              (2013.12.26 岡本 泰)


分かりやすい紙面を

 本社しか知らない「箱入り」が初めて転勤した春から4年が経過、今年4月、本社に出戻った。内勤になり、ほぼ「箱詰め」の日々を過ごし早9カ月がたとうとしている。それにつけても、いろいろさまざまなミスを犯したものだ。
 あちこちに行き取材し記事を書く、という新聞記者らしいことは、全くしていない。所属が整理部に変わり、報道部記者が書いた原稿を3番目か4番目、まれに2番目に読む係だ。用字用語ブックをめくりながら赤ペンで不正確な箇所を直す。ふと、自分はどれだけの間違いを正してもらっていたのだろうかと反省しつつ、見出しを考え、割り付けも少々し、ゲラ刷りに目を通し──。
 いわゆる記者時代は「私が分からない(知らない)ことは、分からない人が多分、いる。だから聞く、書く」が基本だった。今は「私がさらっと読めて、すらっと分かるか」が基準になってきている。すらっといかないときは、何かしらがあるのだ、と。
 記者とて人の子、人のすることにエラーは「あるもの」。だがそれは新聞となって世の中に出ていく前に食い止めなければならない。その防波堤の役目も負うのだが、なんとも軟弱な防波堤で。
 誤字脱字の見逃しは言うに及ばず。おわびの訂正記事を載せるのを忘れた、宝くじの抽選結果の掲載が1日遅れた、記事と違う見出しが入ったまま紙面に…と、自ら破堤するようなミスもしでかした。「こんな間違いされると、首くくりたくなるよ」とおしかりをちょうだいした。怒り心頭でいらしただろう、当然のこと。
 記事は紙に印刷され新聞となり、明らかに残る。地域の日々の記録として考えてみれば…そこに誤りが潜んでいたならば。読み手に補正する記憶がなければ誤りは「事実」に化けてしまいかねない。妙ちきりんな言葉遣いもまっとうな日本語の顔をして歩き出す。
 何をどう書くかは報道の仕事。それを紙面で使うか使わないか、どう使うかは整理の仕事。かつて、そう上司に教えられた。整理の駆け出しはまだまだその域には届かない。「読んで分かる」か否かに、何より破堤しないように努めよう。(2013.12.25 渡部 祐木子)


私には夢がある…

 平成35年8月。5丈8尺七夕の復活から10年。大型七夕は23㍍の城郭型、放浪の画人・蓑虫山人(みのむしさんじん)の写生画を再現した灯籠に加え、今年は8年ぶりに“新作”が登場、25㍍の「阿倍比羅夫」が街の話題を独占していた。
 開幕の3日は、元気あふれる10基のこども七夕、遂に加勢が実現した五町組の役七夕灯籠、鐘(かね)のリズムを合図に軽快に跳ね回る踊り手たちに続いて、4基の大灯籠が電線地中化が完了した往復3㌔の市街地を闊歩(かっぽ)。観衆は全国各地から集まり、過去最多の30万人を記録、2日のこども七夕から7日のシャチ流しまでの期間だけで、能代山本周辺には100万人超が訪れた。
 祭り期間外も、30年に市役所第4庁舎跡地へと建った「七夕展示館・郷土物産館」には通年で多くの観光客が来場。近年は新たな宿泊施設や飲食店の立地で雇用の場が増え、能代に残りたいという若者も増加、市民の所得も向上の兆しが見えてきた——。

◇  ◇  ◇


 能代市が県の未来づくり交付金獲得のため9月に作成した「観光振興による交流人口の増加と地域の活性化プロジェクト」の資料や市議会での議論などを基に、10年後の「天空の不夜城」を想像した。“希望的観測”も入ったが書いていて何かワクワクしたし、何よりこの明るい能代の近未来を今の子どもたちに見せたい、夢に終わらせたくない、との思いが湧いてきた。
 今夏の初運行に続き、来年は23㍍の高さで製作される大型七夕。しかし市内には、これを良しとしない声がある。初年度の検証が不十分なまま多額の市費を投じることへの疑問、展示館の建設費が市の新庁舎レベルとなる可能性があること、どこかすっきりしない役七夕との関係など、理由は諸々(もろもろ)だろうが、一番は、市や関係者の「大型七夕に託す思い」が、それを最も享受するはずの市民に伝わり切れていないからだと感じている。
 「明るい未来を次代に残したいか」と問われ、「いいえ」と答える市民はおそらくいない。どうすれば実現するのか、どうすれば市民は一つになれるのか。その議論の土壌をつくるのが地域紙の役割と心得て、今後の不夜城取材に当たい。(2013.12.24 平川 貢)


知るほど魅力的 漁業

 今年度から八峰町を担当した。初の行政担当で、財政の小難しい話についていけるか心配だったが、同様に不安に感じたものがある。漁業取材だ。
 過去の担当記者がハタハタ取材で「じゃまだ!どいてれ」と漁業者に一喝されたことなどから、「漁業者は気が荒そう」とのイメージがあり、ひとりビクビクしていた。
 7月の岩ガキ、9月の底引き網、12月の季節ハタハタ。ハタハタは連日漁港で漁業者に手応えを聞いた。「撮るならモデル料払え」と荒めの口調で話す人はいたが、だいたい冗談(だと思う)で、番屋で缶コーヒーをくれ、漁の展望を丁寧に話してくれる人も。浜の母さんはチャーミングで、“うれしい拍子抜け”だった。
 漁港周辺ではハタハタの重みで船を傾け、呼吸を合わせて網を引く姿に釘付けとなった。豊穣の日本海のそばに住みながら、どれほど漁業のことを知っていたか。荒れた海に生活と命を懸けるのだから、気が荒くたっておかしくないのに。
 厳しさもかいま見た。1年も経たず月10万円以上の負担増となった燃料価格、バブル時の半分以下の魚価。「代々の家業を簡単にやめられない」「食の提供を担っている意地」。そんな声が聞かれた。それだけに「きょうはダイリョウ(大漁)だ」と声を弾ませる姿には心から共感し、不漁にはなぜか私も落ち込んだ。
 厳しくも魅力的な漁業の現場に触れたせいか、買い物では地元の魚を選ぶようになった。地域の漁業をもっと知ってもらい、地場の魚を食べてほしいとの思いもある。
 八峰町は今月末までハタハタまつりを開催している。漁業資源を生かした地域おこしが弱かった反省を踏まえ、町内13店舗でハタハタ料理を食べた人に特産品が当たる初の企画だが、賞品は1等5千円分が1本だけなど、観光客を積極的に引き込むには訴求力がまだ弱く、“まず一歩”の状況だ。
 漁業体験や漁業関係者との交流も観光客や住民の心を引きつけるはず。地魚ツアーを定期開催したっていい。ツアー参加者に対応している漁協のSさんの話は噺家顔負けだ。アイデアを練り、町の漁業ファンを増やそう。(2013.12.23 山谷 俊平)


「語らない選挙」の明暗

 「選挙はスポーツだ」スポーツ担当が長かった私は、上司の言葉に乗せられ(?)、初めて今夏の参院選を取材。右も左も分からないまま、各陣営を奔走した。
 確かに選挙はスポーツ記事と形式が似ている。例えば、「大会まで1週間」は「公示まで1週間」、「出場選手紹介」は「候補者紹介」、「あす決勝」は「あす投票」──など共通点は多数。
 その都度、陣営の幹部らに候補者を取り巻く情勢の変化や、当選するための戦術・戦略を取材するのは、バスケや野球の取材で選手や監督にチーム状況などを聞く感覚と似たものがあった。
 公示日以降の街頭演説や個人集会は、いわば試合本番。現場の臨場感をいかに鮮明に描けるか。そんなことばかりを考えながら取材していた。
 現・新4人の争いとなった参院選秋田選挙区は事実上、県内唯一の議席を死守したい民主党現職と、政権に復帰して勢いに乗る自民党新人の一騎打ち。選挙の争点は、安倍政権の経済政策・アベノミクスの是非や憲法改正、TPP、消費税増税、原発など国の指針にかかわる重要な問題ばかりだった。
 しかし、選挙戦を通じて政策論争は盛り上がりに欠けた。むしろ、有権者にとっては知りたい情報を「語らない選挙」が展開されていたように思う。
 自民党新人は、憲法改正や原発などの問題はほとんど語ることなく、「ようやく芽生えた期待感を実感のあるものに」と景気回復をアピールする「安全運転」の選挙戦を展開。一方の民主党現職は「政治にバランスを取り戻す」とアベノミクスや原発再稼働を批判し対案を訴えたが、迷走を重ねた政権運営への反省や立て直しを、明確に語ることはなかった。
 結果、自民党の圧勝。「語らない選挙」の明暗を分けたのは、風がどっちに吹いていたかというムードにほかならない。これをスポーツに例えるなら、どんな試合と総括したらいいのだろう。少なくとも私が見たかった政策論のマッチアップはほとんどなかった。候補者個々はひたむきだったと思うが、政治の世界の「ひたむきさ」は何かがおかしく、どこかが違った。(2013.12.22 大柄 沙織)


 

わがふるさとの白神

 振り返れば、今年も時間を見つけては各地の山に出掛け、登って歩いた。八ケ岳や丹沢山地、立山連峰、尾瀬、東北は安達太良山や早池峰山、鳥海山といったように。
 山小屋やテントに泊まらない日帰りの山行だとしても、地元に帰ってくると思うことがある。自分が暮らす土地には、白神山地があると──。
 通勤途中や仕事で車を走らせていても、北の方角に目を向ければ、白神山地を形成する峰々が連なり、大きな森となって存在感を示している。そんな豊かな風景が日常にあるからこそ、白神山地に抱かれているとさえ思う。
 白神山地が世界自然遺産に登録されて今年で20年。節目ということもあり、いつもの年より白神の森に目を向け、足も運んだ。残雪を踏みしめて山開きを味わい、初夏にはブナの緑にまぶしさを覚え、黄葉の後は腐葉土となる落ち葉の軟らかさを実感し、冬の気配も感じた。12月、森は真っ白だ。
 白神の四季に触れる一方で、麓の住民たちがどれだけ関心を寄せているかということも気になった。
 「オールオーバーグリーンでした。目と目の端まで緑色になることって、なかなかありませんよね」とブナ林を歩いた時の感動を語る女性。「素波里の水を引っ張っているんだ」と自慢げに話す農家。「世界遺産は誇れること。けれど、保全の大変さを知った」と口にする中学生もいた。
 当たり前のように存在しているものに対し、時に人の関心は薄れてしまうことがある。たとえ、それが日々恩恵を分け与えてくれる貴重なものだとしても。白神山地には、そうであってもらいたくない。
 遺産登録から、ちょうど20年が経った今月11日、本県側で青秋林道の建設反対運動をけん引した藤里町の鎌田孝一さん(83)とお話する機会があった。
 自然保護の行動を貫いた当時の姿勢を尋ねると、「水を守ることは森を守ること。自分たちの故郷だから、守るのは当然だった」との答えが返ってきた。
 白神山地。それは故郷の森であると改めて感じさせられた1年だった。2013.12.21 宮腰 友治


 

踏み出す行動力

 「尊敬できる人はどんな人か」と尋ねられたら、自分は「行動力のある人」というのが答えの一つに浮かぶ。やりたいことを心の中にとどめず、すぐ実行へ移すことができる──ような人。取材をしていると、そんな人たちに出会うことがあり、生き方を勉強させられることも多い。
 その一つに、10月に開幕したバスケットボールのリーグ戦、能代山本ナイトリーグ(NNL)を主催するメンバーが挙がる。白坂俊也代表、バスケの街づくり推進委員副委員長の塚本鋼平さんなど、能代山本のバスケ好きの大人たちが知恵を絞り、「住民がバスケを楽しめる機会に」との思いで、初年度のリーグが動き出した。
 準備段階から取材に伺い、活動を見てきた者として、まずその発想に驚かされた。「バスケの街」といわれる能代市だが、一般の人がバスケを身近に感じる機会が限られているということに目を付けたのだろう。謳(うた)ったのは「住民参加型エンターテインメント」。プレーを楽しめると、競技への理解や関心が高まることを見据え、誰でも気軽に参加できるように門戸を広げた。
 そして、8月に記者会見を開いた際にもまた、驚いた。開幕日やリーグ日程などの概要を大々的に発表したものの、選手の募集はその後で、会場も未定のままだった。期待が大きい分、「これからどうなるのか」という思いも少なからずあったのだが、メンバーの情熱の前にこんな心配は杞憂(きゆう)だった。 
 SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を積極的に活用し、リーグの魅力やバスケの楽しさを住民に熱心に売り込んでいく。情報を知った人が別の人へと伝えることで、人脈の輪は日増しに広がっていった。関係者から「参加者増えてきてるよ」と喜びの声が聞こえるようになると、自分は安堵(あんど)を通り越して、「すごいな」と感心しきりだった。
 行動力はすべての原点のように思う。何かを始める時、苦手なことに挑戦する時など、力が試される場面が何度もある。そこで、「自分にできるだろうか」と不安を感じて躊躇(ちゅうちょ)するのか、「やり切る」と決めて前に踏み出すのか。来年は行動力を磨く年にしたい。(2013.12.20 松嶋 研祐)


 

「小さい」は不利でない

 能代山本の22小学校のうち4割に当たる9校が全校児童数が100人未満だ。それ以外の学校でも過疎と少子化に伴い子どもたちの数は減り続けている。
 「人数が少ないことは、不利なのか」。今年3月、そんな疑問を抱きながら「小さな学校」にスポットを当てた連載を担当した。しばしば統合の理由にも挙げられる複式学級の授業を取材し、人数が少ない中での教育の在り方を見詰め、感じたことをまとめた。
 日ごろの取材でも小規模校に足を運ぶと、子どもたちが人懐こい笑顔で話し掛けてくれる。日常的に住民が訪れ、開かれた学校として機能しているのだろう。「地域に育てられているな」と感じる。
 県教委が推進する「ふるさと教育」はどの学校でも行われているが、特に小規模校では、地域の大人との関わりを大切にしている。伝統芸能保存会から指導を受けて郷土芸能に取り組んだり、老人クラブと一緒に農作業を体験したり、児童が地域への感謝を込めてきりたんぽ鍋を振る舞うなど、まさに地域の中の学校そのものだ。
 しかも、そこでは子どもたち1人ひとりが主役だ。全校がきょうだいのように仲が良く、上級生が下級生を引っ張る中でリーダーシップを培い、低学年は身近な先輩の姿を見て成長する。授業では人数が少ない分、1人ひとりの自主性が育ち、特に「解消すべきもの」に挙げられる複式授業で顕著に表れる。そんな状況は、決して不利な環境だとは思わない。
 しかし、過疎化が進むこの地域では「人数が少なくなったら学校はなくなる」のが当たり前だというように、統合の話が進んでいる。「少人数よりも大人数が良い」「複式学級を解消する」などの理由で統合を進めていくならば、そう遠くない将来、この地域にはいくつの学校が残っているだろうか。
 子どもたちは地域に育てられていること、そして、子どもたちの明るい声が地域に響き、住民の希望の光になっていることを忘れてはならないと思う。そこに「この街」が目指す方向性が映し出されているのではないだろうか。小さな灯火が絶えずに、未来を照らしてくれることを願わずにはいられない。(2013.12.19 浅野 結子)


 

盲導犬の取材に学ぶ


 春から福祉担当になり「これ書いてみたら」と先輩記者から引き継いだのが盲導犬利用者への取材だった。最初に取り組んだこの記事がその後の福祉分野を取材する上での土台を作ってくれた。
 重度の視覚障害を持つ能代市の山崎和治さんは2月から盲導犬・ウェインとの生活を始めたが盲導犬の珍しさから“仕事中”のウェインに突然話し掛けたり、触れたりする人々の反応に戸惑っていた。人好きなウェインがそれによって集中力を切らすのは山崎さんにとっては大変な問題だった。
 山崎さんがウェインと住む部屋に伺うと、山崎さんの横には“オフ”状態のウェインがぴったりと寄り添い、愛嬌たっぷりに出迎えてくれた。外に出ようとハーネス(白い胴輪)を装着し仕事モードに入ればキリリと表情が変わるのが不思議。ウェインと歩く山崎さんは「目の不自由な人」とは思えないほどすたすたと歩いていた。
 かつて目が不自由なことを周囲に悟られたくないと必死だった山崎さんの体験談は壮絶だった。白杖に抵抗があり、白杖を持たずに外出。しかし、実際には目の前の障害物や足元が見えないため、足を骨折する大けがを負ったこともあった。
 山崎さんがウェインと出会ってやっと手に入れた安全や安心は街の人たちの理解があればもっと大きなものになる。山崎さんの苦労を聞いたからこそ記事を書くプレッシャーは大きかった。「能代に盲導犬がいる」ということだけが伝わってしまうのでは意味がない。盲導犬の仕事や、盲導犬使用者の立場を「正しく伝えなければ」と思うほど言葉が見つからず1行も書き進められない日もあった。
 原稿が何とか形になった時、いろいろなことが不安で山崎さんを再び訪ねて記事に込めた思いを説明した。説明を終えると一言「ありがとう」と言われ、やっと紙面に載せて送り出す心の準備ができた。
 障害を持つ人にとって制度ができたり特定の団体からの援助があることだけでは本当の安全、安心な生活は得られない。新聞で報じることで、街の人々が支えていく態勢をつくる手助けになれればと思っている。(2013.12.18 佐藤 詩織)


 

勇気をもらった笑顔

 日々の取材でよく目にするのは高齢者の元気な姿。取材先では高齢者に話を聞くことが圧倒的に多い。そんな中、入社1カ月足らずでお会いした1人の男性が心に刻まれ、今でも忘れられない。
 4月、新聞記者として右も左も分からない状況で上司から一言。「自分史の取材よろしく」。「自分史って?」、「どうやって?」。さまざまな〝?”が頭の中を駆け巡る中、すぐに連絡し取材に向かった。
 自分史─。人生の節目に自らの過去を振り返り、整理する場として執筆するものだ。取材相手は、高校教師として長年教育現場に携わった能代市内の男性(69)だった。
 話を聞くと、最愛の妻と長女に先立たれ生きる気力を失う中、2人に感謝の意を込め、これからを前向きに生きるきっかけにしようと執筆したという。
 厚さ約1㌢の冊子には男性の生い立ちや家族、教え子との思い出が写真や文章で細かく紹介されている。妻と長女の闘病中の様子までもが詳細に記録され、計り知れない悲しみとともに家族の愛をひしひしと感じた。
 偶然にも、高校時代の教頭だったことから話題は自然と母校に及び、自分史を見ながら「この行事、懐かしいですね〜」などと他愛もなく続いた。
 取材が1回で終わるわけもなく、肝心なことを聞き忘れたりして自宅を何度も訪れた。そのたびに男性は笑顔で迎えてくれ、長時間付き合ってもらい申し訳なく思う気持ちを和らげてくれた。
 「山田さんに取材してもらっていがったぁ。一緒に飲みに行ぎでなぁ」。取材後の言葉が心に染みわたった。込み上げてくる涙をこらえて「行きましょう!」と笑顔で約束を交わし、男性宅を出て車に乗るまで鼻歌交じりにスキップした。
 掲載日、早々に頂いた手紙には「亡き妻の命日でもあり、仏前に報告でき感無量」と添えられていた。奥様の命日と掲載日が重なったことに運命じみたものを感じたのを鮮明に覚えている。
 相変わらず取材が足りなかったりミスしたりと反省する毎日だが、新聞記者として踏み出した第一歩と思うこの男性の笑顔を時々思い浮かべながら、約束を果たす日が訪れ再会できることを願っている。(2013.12.17 山田 直弥)


 

人の出会い大切に

 大学に在学中、教授へレポートを提出した際の「君なら文章を書く仕事を将来の選択肢に入れても良いのでは」という一言が新聞記者になることを決心させた。
 卒業後は地元を離れることなく北羽新報社に入社したが、いざ記者になってみると仕事の大変さを痛感した。取材をなかなか切り上げられずに注意されたり、会社に戻ってノートを開くと肝心な部分を聞き忘れていたりと失態ばかり演じ、取材中も的外れな質問を投げ掛けたり、同じことを何度も聞くなど迷惑ばかり掛けている。
 また、取材を続けていくうちに、私は地元を何も知らないということを知った。これまで娯楽が少ないと思っていたが、本当はたくさんのイベントが行われている。地域を活気づけようと頑張っている人たちがいる。地元に住んでいながらそのことを知らない自分が情けなく思えた。
 そんな私だが、仕事の中で最もありがたみを感じているのが地元の温かさだ。スポーツや学校行事などの取材に行くたびに自分や家族の友人、中学・高校時代の恩師などに出会い、「久しぶりだね」「地元就職おめでとう」などと声を掛けていただき、うれしさのあまり目頭が熱くなることもあった。
 今までに取材に応じてくれた方々にも感謝の思いが尽きない。失礼な振る舞いも多々あっただろうに丁寧に対応していただき、記事が紙面に載った後は「うまく書いてくれてありがとう」などと連絡をくれた事もあった。そのたびに私は「次も頑張ろう。地元の人たちのために」という気持ちを持って次の仕事に向かう。
 祖母はよく「人との出会いを大切にしなさい」と話していたが、今になって少しずつその言葉の意味が分かってきた。私が大学に進学できたのは恩師の勧めがあったからであり、記者になることを決断したのも教授の一言があったから。「いままで多くの人に支えられ、現在もさまざまな人に助けられているんだ」。取材を続ける中でそのことを改めて感じた。
 入社約8カ月。まだまだ駆け出しだが、祖母の言葉を胸に仕事に向き合っていこうと思う。“人との出会いを大切に”しながら。(2013.12.16 小林 佑斗)

item5