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2010.記者メモ

 

感激、2つの能代公演

 ステージの小林旭は「能代は50年ぶりぐらいだろうか」としみじみ語り、歳月の流れるのが早く、もう76歳になったと続けた。
 かつて能代を訪れていたとは初めて知ったが、先輩は富町の市民体育館で床に座って見た記憶があるという。当時、映画全盛期。歌う銀幕スターが地方に出向いて公演していたのだ。
 12月10日に市文化会館で小林旭と浅丘ルリ子の日活コンビのコンサート─と7月の本紙広告。気乗りしなかった。アキラの脳天から突き抜けるような高音は好みではないから。
 だが、11月にケンさん(高倉健)、ブンタ(菅原文太)とわが青春期のスターが相次いで亡くなって寂しさを感じたところに、アキラの登場。しかも、フーテンの寅さんのマドンナを4回も演じたルリ子さんも一緒である。
 これは見ずにはいられないと、衆院選の最中に昼の部に出掛けた。年齢割引で半額の5000円。約1200人の会場は半分ほど埋まったか。
 アキラは腹が出っ張り、マイトガイの時代とはほど遠い。しかし、トークは巧みで、歌は声量にあふれ力強く、まさに「歌うスター」。ルリ子さんはやせっぽっちに風邪気味で少々痛々しかったが、74歳は変わらぬ美しさと化粧で、オーラを発していた。感激。
 何より二人の存在は、高齢社会の能代の観客に、元気を運び、皆ががんばろう、美しくあろうという気分になったはずだ。
 コンサートの帰りしな、1カ月前も元気をもらい、感動したことを思い出した。同じ文化会館でのバスケットボールを題材にしたミュージカル「FAB FIVE THE MUSICAL」(驚異の5人)。
 6年後の東京オリンピックに向けたバスケ日本代表応援事業。地方公演のスタートの地がバスケの街・能代となった。3000円を払って11月7日の昼公演に。
 観客は50人にも満たず、能代人として恥ずかしくなってしまったが、出演者はゴールを設置したステージいっぱいに、試合や踊りに歌を生き生きと繰り広げ、「能代工業が目標」とも叫んでいた。
 若い力はやはりいい。こちらは喝采して、「ありがとう」とつぶやいた。         

(2014.12.31 八代 保)


 

窓を開ける取材を

 「決める政治」という言葉を、能代市議会の議員から何度か耳にした。モノゴトを前に進めたいとの思いからだろうが、決めることばかり優先させては大切なことがおろそかになる。手続きの丁寧さがなければ、まともな議論ができず、民主主義は「酸欠状態」に陥る。どうも今の市政にはどこか息苦しさを感じる。
 先の12月議会で、新しい市役所庁舎の整備費45億7302万円余を盛り込んだ予算案が、賛成多数で可決された。総事業費は48億6193万円。基本計画段階から実に13億円近くも膨らんだ。
 削られるものがないか精査するため建設費を削除する予算修正案も提出されたが、そんなことをしていては再設計の費用が掛かるし、見直している間に建設単価は上昇しかねないと一蹴された。合併特例債を活用してさっさと建ててしまった方が得策というわけだ。
 確かに、その通りだろう。ただ、これらの金額が公になったのは12月議会直前のこと。「まだ示せる段階ではない」と、ずっと金額を明らかにしないままきたわけだ。これでは時間をかけた議論などできるわけがなく、12月議会は、議論ではなく判断だけが求められた。知り合いの建築設計関係者に聞くと、「目安程度の額なら、もっと早い段階で示せたはず」と言う。建設費を早く出さないこと自体が議会で問題になったこともないという。
 一方、いまだに市民の物議を醸している河畔公園の大型遊具設置。予算案を可決した6月議会の所管委員会審査を取材したが、十分な議論があったとは言い難い。
 遊具業者の提案と役所の検討だけで予算案を出してきたことに、「なぜ利用する人たちの声を聞かないのか」と議員が質問すると、「遊具のことは、業者が一番知っている」と市の担当者は答えた。こんなあきれた答弁があっても市議会では通ってしまう。そして、可決後は、市民が何か言っても、それは「市民の代表」が決めたことだからとなる。
 「酸欠状態」を解消するためには、窓を開けて新鮮な空気を入れなければならない。少しでも窓を開けられるような取材を心掛けたい。          (2014.12.30 伊藤 仁)


 

七夕はみな〝熱く〟

 「北羽は『天空の不夜城』を大きく扱い過ぎている。役七夕だって頑張っているのに…」、「役七夕の人たちは『不夜城』を快く思っていない。役七夕の記事と同じ日に、『不夜城』の写真特集を掲載することないじゃないの」——。8月7日、役七夕に関わっているらしい女性読者から立て続けに電話があった。
 その前夜、仕事の合間に役七夕の最高潮の場面を柳町で見入った。あいにくの雨の中、子どもたちから長老まで町内を挙げた道行き、威勢良いはやしと掛け声、観衆も含めその空間は、脈々と受け継がれ円熟した祭りムードで熱かった。
 たった一度、その役七夕に加わったことがある。入社1年目の30年ほど前、関係町内に当たり、弊社から何人か加勢するとし、声が掛かった。隣町の二ツ井に生まれ育ち、小さい頃から七夕は幾度となく見ていた。実際、長丁場の運行に加わってみると、テンポの良い道中ばやしで街を練り、哀調の流しばやしでシャチ灯籠に別れを告げる2日間の“不夜城絵巻”は、能代っ子がどっぷりつかるのも納得だった。
 どこの地域にも大小を問わず祭りがあり、住民にとっては「特別な日」となる。催事に関わっていれば思い入れはなおさらだろう。
 官民を挙げた観光プロジェクトとして大型七夕「天空の不夜城」が始動したのは昨年。税金も投入しての製作に、当初から市民の反発はあった。製作過程を「定点観測」的に報道し、いよいよお披露目。不夜城の売りは何よりその巨大さであり、それを伝えるため初年、そして今年と特別紙面で掲載した。
 これまで2年、灯籠の迫力で観衆を引き付けたが、運行の演出などはまだ手探り。それでも、関わっている人たちは、やはり熱い。より盛り上げるアイデアに検討が盛んだ。
 大型灯籠の3基目製作、巨額を投じての保管・管理施設建設は十分な議論と市民の合意形成が求められるは当然。産声を上げたばかりの祭りを、地域がどう育てていくか。その成り行きを記録していくのも地域紙の役目である。30年、50年後に、「伝説」として語られるのでなく、「伝統」が築かれていることを願う。              (2014.12.29 池端 雅彦)


 

投票率の低迷

 「選挙権があれば…」と悔しそうな高校生に会った。アベノミクスをめぐる論戦が目立った12月の衆院選で、社会保障や集団的自衛権、原発、特定秘密保護法などを語る口調は、大人たちよりも真剣だった。
 「投票したいができない」。こうした思いがある一方で、今回の衆院選は戦後最低の投票率となった。能代山本の秋田2区は前回(24年12月)より8・74㌽低下の54・54%。
 突然の衆院解散、有権者の関心を欠いた選挙で、投票率の低下は事前の大方の見方。加えて投票日が今冬初の「真冬日」を記録する厳しい寒さに見舞われ、当日の弊社報道部では「50%いくのか」と懸念の声が漏れるほどだった。
 今回の選挙費用は約630億円。この半分が投・開票所や期日前投票の人件費とされるが、選挙権を行使しなければ巨額の税金が無駄になる。そればかりか半分近い有権者が投票に行かなかったとなると、民主主義の根幹を揺るがしかねない。
 投票率の伸び悩みは国政だけかというと、そうともいえない。4月の能代市長選は現職と20代の新人による市政の舵取りを懸けた一騎討ち、市議選は定数22に9人の新人を含む30人が立候補する激戦。投票率は71・05%で、前回(市長選は無投票)より上昇したもののわずか0・36㌽にとどまった。前々回が80・32%。取材を通して選挙の熱気を感じていただけに予想外の低さに思えた。
 この選挙について市選挙管理委員会が市内6投票区を抽出して13の年代別で調べた投票率がある。投票率の最高は70代前半で84・73%。最低は20代前半で39・31%。若い世代の「投票離れ」に歯止めを掛ける対策が求められるのはもちろんだが、注目したいのは80代以上の投票率。70代後半では80%を超えていたのが、一気に57・16%まで落ち込んでいた。
 調査の中で有権者が最も多かったのが80代以上のこの年代。今後、高齢化がさらに進んだ場合、投票所に足を運べない有権者が一層増えると予想される。「投票弱者」が投票しやすい環境整備が急務だ。衆院選の低投票率が議論のきっかけになればと思う。県議選が来春に迫っている。

(2014.12.28 工藤 剛起)


 

適正な議員定数は

 今年は春に能代山本の3市町で首長と議員の改選期を迎えた。このうち、三種町は町長、議員ともに無投票で当選。かつて「政争の町」とまで呼ばれた山本郡南部3町時代と比べると隔世の感がある。
 定数が2削減され、18議席となった議員選挙にはもう少し関心が集まっても良かったと思うが、今振り返ると無投票という地味(?)さのためあまり注目されなかったように感じる。
 町議会において定数削減を議論する過程で、有権者は定数の削減を望むが、ではどれだけ削減したら適数か?削減するのは時流だが、どれほど削減しようと納得はしてもらえないだろう──。そんな意見があったことがメモに残る。行政機関はスリム化の一方通行になっている中、議会も簡素化は避けて通れないだろう。それでも、一定の議員数がいること自体の利点があると感じることも。
 たとえば、農産物直売施設の増改築に際し、電柱移転にかかる費用は町が負担するのか、それとも電力供給者側が負担するのかが問題になった。改築する側が負担しなければならないという町側の説明に対して、議会の主張は「交渉次第」。その言葉通り最終的に電力供給者側の負担で決着し、多かれ少なかれコストの縮減につながったのだが、それを可能にしたのは知識と経験がある議員の存在。とかく削減という矛先が向きがちな議員数だが「数が確保できている」ことが決してムダではないことを示す事例だと感じるのだ。
 とはいっても、それもこれも活発な議論なり質疑なりがあってこそ。一般質問にも立たない、それどころか本会議場で声すらほとんど発しないということがあったとしたら、それこそ「もっと議員を減らしてしまえ」だ。他の議会でのことだが、あまりに町長にべったりで「彼は町長の賛成要員だから」と揶揄(やゆ)される人がいたことを思い出した。しかし「賛成!」一本槍(やり)であったとしても、それでも本会議場で声を出すだけまだマシと、言われるようでは寂しい。改選を経た今、行政のチェック機関としての役割を再認識の上、ぜひこれまで以上に熱を帯びた議論を、と期待する。

(2014.12.27 岡本 泰)


 

20年の歳月

 「この子らは世の光なり」──本紙にこの言葉を見て、あの春から20年かと少々感慨にふけった。ぴかぴかのランドセル、セーラー服がよく似合ったあの子は、高等部1期生のあのイケメン君は…どうしているかしら。
 6年4月、「この子らは─」を掲げ能代養護学校は開校。「広っ!でかっ!」。ついこの前まで子どもたちが通っていた比内養護学校ねむの木分教室とは比べようもない環境に口あんぐり。「これが『待望の独立校舎』か」と納得もした。
 分教室は昭和48年5月、能代山本広域市町村圏組合運営の通所施設・ねむの木学園内に教員1人で開設(当初は能代市向能代小の分教室、52年県立移管)。学園の指導室の一部を借りる形で学校教育が始まり、平成5年度に20周年を刻むが、その年度末で閉級(学園も閉園)。校報「ねむの木」閉級特集号に、当時の比内養護学校長は分教室開設当初を回想し「新設の能代養護学校に移ることを思うと隔世の感があります」とつづった。
 奇しくも20年という歳月が重なる。能代養護学校は分教室と「同い年」になった。地域の学校として認知され、児童生徒の活動は格段に広がる──のだが。どうも、「隔世の」、と言えるほどの感慨は湧いてこない。
 最後の分教室PTA会報に成人の入所施設を見学した保護者の感想がある。小学3年の子の父親は「改めて我が子が成長した時どうなるんだろうと考えさせられました」。その子は今、30歳前後か。
 子は成長し成人となり、親は老いる。障害があろうとなかろうとそれは同じなのだが。親が子の「学校」を出た後に、自らの老いに、心悩ませなくても暮らせるようになっているだろうか。
 呼称は「精神薄弱」から知的障害へと変わった。障害者福祉制度も大きく変わり、グループホームなど地域に生活の場を置くサービスも増えた。19〜26年度の能代市の市民意識調査で「障害を持つ人も社会参加できる環境が整っている」と「思う」は1・6〜4%。「どちらかといえば」を合わせても11・2〜17・6%にすぎない。
 なぜだろう。問い直してみようか。20年後の、この地域を思い浮かべながら。

(2014.12.26 渡部 祐木子)


 

逆取材を受けて

 「現場に中学生、連れて行っていいか?」。10月のある日、庶務部長から声が掛かった。中学生とは、当社に職業体験で訪れた能代市内の2年生2人。記者の仕事とはどういうものかを、実際に取材している様子の見学を通して理解してもらおうという“定番”のメニューで、その日は自分に役目が回ってきた。
 こちらの用事が一段落したところに男子生徒2人がやって来て、「取材」を受けた。最初の質問が「スクープとはどうやって生まれるのですか?」(確か、こんな趣旨だったかと記憶…)の豪速球には少々戸惑ったが、仕事の1日の流れや記者としての心掛け、大変さ、面白さなどを聞かれ、思い付いたこと、普段考えていることを率直に話した。
 このうち「大変さ」では新聞社は日々時間との戦いであること、「面白さ」では記者でなければ経験できないだろう瞬間にさまざま立ち会えるのが醍醐味、などと回答。最後は、君達も将来は記者の仕事にとの願いを込め、「頑張ってね」と告げてその場で別れた。
 帰り道、質問への受け答えを反芻した。すると「彼らの意に沿った答えだったのだろうか」「もっと気の利いたことでも言えば良かったな」など反省が次々。取材される側になって改めて、「取材に答える」ことの難しさに気付かされた。
 取材現場で、質問とそれに対する回答がスムーズにかみ合った時ほどうれしいことはない。予期せぬ質問にも当意即妙に対応してくれる人など、もはや尊敬の域。ただそんな人はほんの一握りで、投げた質問に対し熟慮し、訥々と、誠実に答えてくれる人の方が多い。そうしたやり取りの中でキラリと光る言葉が聞けた時もまた、この仕事の喜び。そのためにも取材力、つまり「引き出す力」は、記者である限り磨き続けていかなければならない生命線だ。
 くだんの中学生。後日丁寧に「職場体験新聞」の形にまとめて体験の感想を送ってくれた。編集後記には「これからの進路に生かしていきたい」の文字。拙い話からも伝わるものはあったようで、ほっとした。ただやはり、受け答えが場当たり的だったと反省。次に取材される機会に備えて、考えをまとめておくことにしよう。

(2014.12.24 平川 貢)


 

宝の桧山茶、後世に

 今年初めて能代市桧山の「檜山茶」を取材した。国内でほとんど見られなくなった宇治茶の在来種だが、「埋もれた宝」と感じた。名前は知っても飲んだことのある人は驚くほど少なく、過小評価されている印象を受けた。
 檜山茶は宇治茶を源流とし、改良も改植もされず280年にわたって受け継がれてきた。最盛期には200戸が10㌶で栽培したが採算に合わない作物として荒廃が進み、製茶業としては梶原茂兎悦さん(87)所有の30㌃だけとなった。茶作りできるのはわずか数人で、後継者難が深刻だ。
 今、本家本元の京都・宇治地域の関係者が檜山茶に強い関心を寄せているのをご存知だろうか。宇治在来種を手摘み、手揉みといった古来から続く製法で販売しているのは檜山茶以外にほとんど例がないためだ。10月に宇治茶の産地・京都府和束(わづか)町の職員が桧山を訪れ、生産者と会って丹念に話を聞いた。自腹を切ってまで敢行した遠来の視察。担当者の本気度を感じた。
 和束町は檜山茶の苗木を里帰りさせる計画も立てている。宇治在来種の逆輸入──。日本は自国の文物の価値を海外に認められて逆輸入を繰り返したが、桧山─宇治もその構図に当てはまる。本家のまなざしが檜山茶を守る人々に刺激を与え、脆弱だった組織体制が整う好循環をつくり出した。
 消費者の好みに合わせた品種改良で宇治茶の在来種は淘汰され、姿を消しつつある。茶産地の製茶は機械化され品種改良が進むが、檜山茶は手作業で昔の味を守ってきた。「無駄の中に宝がある」。天才勝新太郎の言葉だが、檜山茶も効率を追求し、無駄を省いていたら現在の姿はなかったかもしれない。愚直なまでに改良しなかったことが新たな価値を生む逆説。豊饒(ほうじょう)な寄り道がここにある。
 梶原さんは米寿になる好々爺(こうこうや)だが、檜山茶の話になると顔つきが変わる。「地域の宝・檜山茶を語ることは先祖への報恩感謝になる」「宝は内でなく外から価値を付けるもの」。情報量が多く、時に理解の範ちゅうを超えるが、延々と話し続ける。後継者難の中、先祖が知恵と熱意で支えてきた「宝」を守り、後世に残そうとする人の気概を地域全体で受け止めたい。

(2014.12.24 若狭 基)


 

白神の「恵み」は超美味

 八峰町を担当して2年目。今年もおいしい食べ物にありつけた(?)。
 臭いがみじんもないサメのフライと煮こごり風の「べっこう」、今まで食べたそれを疑いたくなる肉厚なエンガワ、ジューシーな沖合ハタハタ、白神あわびの地酒蒸し、サクフワのフグ唐揚げ丼、滋味深いしょっつるだんご、キミヨのつみれ汁…。
 どれも白神の恵みを受け、抜群にうまい。「お金は払います!」と言ったつもりでも、「食べないと書けないでしょ」と振る舞われ、役得の2文字が顔に出たかも。
 小さな町だが、自然と同じく食も豊か。山の幸も海の幸も誇るべき味わいがあり、水産加工会社や菓子店、酒蔵、パン屋、カフェ、農家民宿などが素材を生かしながら営む。
 特産品と町を全国に発信するため、町は24年度から八峰白神ブランド戦略事業を展開。事業所がワークショップを重ね、地域の豊かな食材を活用した酒粕ケーキやハタハタオイル漬けなど新商品を完成、既存商品もパッケージをおしゃれにした。
 オイル漬けは今年度むらおこし特産品コンテストで上位賞を受賞、事業所の高め合いに太鼓判が押された。「酒が飲みたくなってしょうがない」という缶詰を肴(さかな)に、地酒でキューッといきたい。
 一方、商品開発は進んだが、肝心の販売促進は手付かず。また、町は今年度早々に参加事業所で協議会を立ち上げる予定だったが、これもまだ。今年度中に発足し、商品を詰め合わせたギフトをバイヤーに売り込む計画だが、今年は事業が“凍結”した印象がある。
 ギフト化や販促には金がかかり、負担について事業所間に温度差があるのも理由だが、町側の熱意はどうだったか。事業で全国で評価されるほどの商品ができたのに、肝心の販売促進が止まったままでは画竜点睛(がりゅうてんせい)を欠く。
 町が進める移住・定住促進対策も、定住奨励金を移住前に知っていた人はわずか。ジオパークも、白神あわび認定グルメも、事業でどれほど町に波及効果が生まれたか検証し、積極的に改善と情報発信をし続けなければ、これもまた“目のない竜”となる。ゴールはまだまだ先にあるはずだ。

(2014.12.23 山谷 俊平)


 

どこでも記者として

 秋田支社に転勤して2回目の冬を迎えた。多方面からの協力もあって、とりあえずは、何とかやっています。
 能代の本社では役場、学校、福祉施設、漁協、神社、海、山、川、墓、一般のご家庭…とあらゆる現場に取材に行き、時間の許す限り話を聞いて記事をまとめていた。
 一方、ここ秋田支社での仕事は、1日の大半を県庁の記者室で過ごす。各社の机の脇にはボックスが設けられ、通称「投げ込み」と呼ばれるプレスリリースが、日々投函(とうかん)される。日によっては大量の資料が投げ込まれることもあり、提供元は行政機関や民間企業、市民団体などさまざまだ。
 能代山本や大館北秋に関連するものを中心に投げ込み資料を仕分け、翌日の紙面に掲載すべき「急ぎの原稿」は、主に電話取材でその場で原稿をまとめていく。
 このほか、知事の定例会見や各種会見、会議、地元関係者らの県庁訪問、裁判、県議会などが主な取材だ。
 そんな中、投げ込み資料とは別にこんな二つの情報が舞い込んできた。
 「県内初のボルダリングジムができたらしい」。取材と称して早速、「ボルダリング」とやらを体験。手足だけを使って人工壁を登る話題のスポーツで、ジムは老若男女でにぎわっていた。「国内外で活躍できる若手選手を育てたい」と語ってくれた31歳の男性経営者は、今春Uターンしてきたばかり。夢の実現に向けて故郷で奮起する若者の言葉は、頼もしく、力強かった。
 「大森山動物園が夜も開園している」。こちらも取材と称して早速、「ナイト・ズー」を体験。動物は大の苦手だったが、暗闇にたたずむ動物たちの精悍な姿を目にし、動物の新たな魅力を発見。そして何より、動物園の粋なイベントに久しぶりに心が躍った。
 本社時代に比べ、日々の取材は淡泊にはなったが、秋田支社にいたからこそ、取材できたものもある。取材活動の拠点がどこであれ、知りたい、書きたい、という気持ちを忘れず、取材に出掛けようと改めて心に誓う。
 「新聞記者は、記事を書いてなんぼ」。大先輩の言葉を噛みしめ、来年も県都で頑張ります。

(214.12.22 大柄 沙織)


 

「恋文のまち」の演出力

 会社にファクスで送られてきたあるイベントの取材依頼のチラシ。表紙には大きな文字で「きみまち阪で叫ぼう!あなたの想(おも)い!」と書いてあった。〝恋文のまち〟で愛を叫ぶ─。このなんとも興味を引くフレーズに誘われ、ワクワクしながら取材に向かったが、想像以上に楽しかった。
 イベントは、旧二ツ井町時代に開催された「きみまち恋文全国コンテスト」の終了から10年が経ち、恋文のまちの新たな売り込みにつなげるものとして、町商工会が昨年に続いて企画した。夫婦やカップルに愛を確かめる機会にしてもらうというのが趣旨で、県内外から6組が参加した。
 季節は秋本番。木々は赤く色づき、紅葉真っ盛りのきみまち阪を参加者と一緒に歩いた。今までは取材で訪れても第一広場までしか行くことがなかったが、初めて七座山や米代川が一望できるエリアまで登った。日ごろの運動不足もあって足は棒のようになったが、絶景をバックに記念写真に収まる参加者たちの笑顔に疲れも吹き飛んだ。
 そしてこの後、メーンイベントへ。女性が広場へ移動し、男性は屏風岩に向かう。岩の頂上に男性が立ち、眼下の女性に想いを告げるというものだ。
 そこはまさに断崖絶壁で、女性が米粒くらいに見えるほど。自分もあまりの高さに足がすくんだが、なんとか岩肌にあった1本の木の根元に立つと、見上げるようにカメラを構えた。
 緊張した面持ちの男性たち。普段は恥ずかしくてなかなか言えないのだろう。それでもスーッと一呼吸した後、覚悟を決めたように思いっきり叫んだ。「愛してるよ」「ずっと一緒にいよう」「これからもたくさん思い出をつくろう」──。
 少しの静寂の後、広場にいる女性からの叫び声がこだました。「私も大好き」「これからも一緒にいよう」──。
 清々しく、愛情にあふれる言葉の数々に、夢中でシャッターを切りながらジーンと胸に込み上げた。想いを告げた男性たちの表情は晴れやかで、女性たちも感激のあまり涙ぐむ姿が広がった。
 誠心誠意向き合うことは、きっと相手にも伝わる。そう思った。

(214.12.21 松嶋 研祐)


 

「敗戦」をムダにしない

 スポーツで負けた試合を取材する時、正直気持ちが揺れてしまう。特に、普段は向こうからあいさつしてくれ、礼儀正しく接してくれる高校生アスリートたちでも、負けた時は悔しさをあらわにすることが多い。口数も少なくなるし、涙やいら立ちを抑え切れない場合だってある。
 「負けたんだから書かなくてもいいんじゃないの」「負けたことをニュースにされてかわいそう」。以前、読者から言われたそんな言葉も、できればそっとしておいてあげたいという気持ちも分かる。負けた試合の後、監督から「難しい質問だ」「厳しいことを聞くね」と言われることもあり、相手の心情に配慮しなければいけないとも痛感している。
 どうして泣いている選手や悔しがる選手、憤りを感じている監督に話し掛けなければならないのか。自分なりの答えは「勝った試合も、負けた試合も、全力で挑んだ彼らだけのドラマがある」と思うからだ。
 「どうしてうまくいかなかったんだろう」と思う経験でも、次のプレーや次のチャンス、今後の人生の糧になり、無駄なことは一つもないはずだ。
 だから、なおさら負けた時、勝った時以上にしっかりと向き合ってくれる選手や監督の言葉を無駄にしてはいけないし、試合結果だけでは分からない思いを伝えようと試行錯誤を繰り返している。
 その中で意識してきたのは、時間が許す限り見続けること。選手たちの練習環境を知り、どんな思いで取り組んでいるのか、勝った時も負けた時も、ありのままの姿を知ろうと努めてきた。
 大事な試合でシュートが外れたり、ヒットが出なかったりといった悔しいシーンもあった。練習中に監督に注意されて、「ハイ!」「ハイ!」と大きな声で返事し、OKが出るまで何度も何度も同じプレーを繰り返す姿を見てきたからこそ、練習の成果を発揮できた時には自分のことのようにうれしくなる。
 スポーツ担当になって9カ月。「彼らのようにやるべきことに向き合っているのか」「私も負けてはいられない」と自問自答しながら、来年も能代山本の選手たちの一番のファンとして、ともに成長していきたい。

(2014.12.20 浅野 結子)


 

若者の「今」を伝えて

 「一生懸命に仕事に向き合いながらも孤独を抱えて苦しんでいる人もいる。記事にすることで、これからもそういった若者に光を当ててほしい」。能代山本の若者を紹介する「だからこの街で 続能代山本を選択した若者たち」の記事を読んだ人からそんな言葉をもらった。自分の取材を振り返りながら、新聞でできることを考え胸が熱くなった。
 現在の若者企画は25年5月にスタート。20、30代を対象にこれまでに27人を紹介した。それ以前にも、同年2月に20人、さらに22年には「能代山本若者たちの肖像 だからここで…」と題して19人が登場した。
 親の背中を追い掛けて修業中の人、小さな頃からの夢を実現した人、能代山本に夢を見つけ県外から移住してきた人など、経緯や立場はさまざま。農業や漁業、花屋、美容師、教室主宰者など仕事への思いを聞く取材もあれば、音楽活動やイベントの開催、作品制作など仕事とは別の活動で活躍する人を取り上げることも多い。
 そこにはあらゆる「なぜ?」が詰まっていて、自分と年齢の近い人たちのそこに至るまでの経緯や経験、考え方や現状、これからの構想を聞くことで、いつもわくわくさせられ、生き生きと自らを語る姿に励まされる。
 取材した人からは、記事の反響があったことや、取材を通して改めて自分と向き合うことができたなどとお礼の電話やメールを頂くこともあり、その人が喜んでくれることもうれしかった。
 この企画の記事を書く上でいつも明るいイメージしか見えていなかった。無意識にその人が経験してきた苦労や失敗も前向きなエピソードで上塗りしていたのだと思う。能天気で鈍感だった自分に気付かされたのが「孤独を抱える若者に光を当ててほしい」という一言だった。
 丁寧過ぎるほどにお礼の連絡をしてくれた人、離れて暮らす両親に新聞を送りたいと言ってくれた人──。それぞれが生き生きとした姿の裏に孤独や不安を抱えているのかもしれない。この能代山本を選択した若者は一生懸命な人たちであふれている。皆さんの周りにそんな若者はいませんか?ぜひ取材させてください。

(2014.12.19 佐藤 詩織)


 

被災地を忘れないで

 東日本大震災から3年8カ月の今年11月10、11日、旅行業者のモニターツアー同行取材のため、恥ずかしながら初めて「被災地」の宮城県気仙沼市を訪れた。復興へと前向きに暮らす住民がいる一方で、途方もなく続く復興の現状を目の当たりにした。
 震災前の町並みや被災者の心境、どの程度復興が進んでいるのか想像もつかなかったが、「一度はこの目で見なければ」と思っていた。
 現地では被災者から生々しい声を聞くことができた。宿泊した気仙沼プラザホテルの斎藤裕治さんは勤務中に、激しい揺れを感じた。ホテルは高台に位置していたため津波被害は免れたが、妻とは音信不通。1週間後に携帯電話が通じてようやく連絡が取れ、再会を果たした。
 斎藤さんは言う。「被災地を一度でいいから訪れてほしい。そうしないと、震災が記憶から薄れ、置き去りにされてしまうのではないか」と。
 若者からも話を聞けた。トリマーの20代女性は当時、宮城県名取市閖上(ゆりあげ)に住んでおり、コンビニ店で買い物をしていた。経験したことのない揺れを感じ、すぐに外に出て車に乗った。
 「津波が来る」。海沿いを走行し夢中で高台を目指したが、路上には走り逃げる住民の群れ。車が暴走する無法地帯と化し、「車にひかれていく歩行者、死んでいく人をたくさん見た」と重い口を開けた。その一言に衝撃を受けた。
 彼女は「見殺しだけは嫌だ」と、見ず知らずの歩行者を車に乗せているうちに津波に流され意識を失った。気が付いた時は「がれきの山の上にいた」と言い、九死に一生を得た。この女性も「思い出したくない過去だけれど、震災があったことは絶対に忘れないでほしい」と訴えていた。
 3年8カ月後の被災地の現状を自分の目で見て話を聞いたことで、大きな悲しみを乗り越えて笑顔を絶やさず復興に意欲を見せる被災者がたくさんいる一方、土地のかさ上げのため解体される建物もあるなど途方もなく続く復興にがく然とした。同じ東北で多数の死者を出した大震災の記憶を忘れないことでも、微力ながら被災者の力になれるんだと実感した。

(2014.12.18 山田 直弥)


 

失敗から得た方向性

 文章を書く仕事に携わりたいという思いを胸に就職活動をしていたが、希望会社にはことごとくはじき返され、悲嘆に暮れていた大学4年の冬。何気なく開いた本紙の記者募集の広告が救いの手に感じられた。どうにか試験に合格し、念願成就を喜んだ。
 ところが入社してからは失敗の連続にもがき苦しんだ。すべて己の未熟さや能力不足からくるもので、取材先で肝心なことを聞き忘れる、固有名詞の表記を間違える、写真の構図が致命的に悪い…など枚挙にいとまがない。同じようなミスを何回も繰り返しては方々に多大なご迷惑をお掛けし、自分自身のポンコツぶりにへきえきする日々を送っている。
 例えばこんな出来事があった。今年の春先に1面用として扱うシラヨ漁の取材に向かうことになり「自分の記事が目立つところに掲載される!」と思い意気揚々とはせ参じたものの、取材相手からは「顔だけは写さないように」という条件を出され、どんな写真を撮ればいいのかと内心激しく狼狽(ろうばい)した。
 あれこれ試行錯誤しながらいろんなパターンを試してみたが、出来上がるのは紙面に載せられないような惨たんたるものばかり。上司に見せるたびに撮り直しを命じられ、本社と米代川河口を何度も行き来した。ただ、苦い経験ではあるが、同時に記者としての心構えや在り方を学び、その後の方向性を決定付けるきっかけになったと思う。
 この仕事に就いてからさまざまな場所へと足を運んでいるが、行く先々では取材相手の人たちが快く迎え入れてくれる。それは「北羽新報社の記者」という肩書きに信頼をいただいているおかげなのかもしれないが、この地域に住まう方々が持つ生来の人柄の良さが大きく関わっているのだろう。悩み多い取材の中で最も安心する瞬間だ。
 何はともあれ入社からすでに9カ月も経過し、いつまでも新人ぶって甘えているわけにはいかない。来年は果たしてどんな取材が待ち受けているのか。あらゆる要求に応えられるよう、期待と不安が入り交じった初心を忘れることなく、自戒を込めて取材に臨みたい。

(2014.12.17 佐藤 拓人)