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2017記者メモ

2015記者メモ

 

文章への抗議と共感

 

 不定期で月に6~8回掲載のコラム「複眼鏡」。1月20日は「スマップ騒動で知った麻痺感覚」で、人気グループSMAPの解散騒動を取り上げた。
 それなりの長さの人生を送って、海外や日本の音楽グループの分裂、解散を見てきたので、スマップの大騒動に違和感を覚え、個性的なメンバーが存在感あるタレントとして独立してもいいのでは、ということを書いた。さらに、近頃の政界が離合集散を繰り返し、「解散」という言葉に驚かない感覚が生まれていることにも触れた。
 すると、その日朝にスマップファンとおぼしき女性から、編集局に「不快で腹が立った」「上から目線」などと抗議のメールが入り、最後は「もうあのコーナーは読みません」と綴(つづ)っていた。それとは別に50代の女性の集まりで「何よあれ」との声が相次いだ、との話が同僚から持ち込まれた。
 能代山本にスマップのファンが想像以上にいて、騒動に心を痛め、5人が再びまとまってほしいと願う人が多いことを知り、そこを慮(おもんばか)って優しく配慮した内容にすればよかったのかな、と反省した。
 年末、能代市内の70代の女性から手紙。地域の高齢者が集まってゲームや歌などを楽しむサロン会でのシーンが描写されていた。
 「一番高齢の86歳のおばあさんがポケットからごそごそと一枚の紙を出し、私にみんなの前で読んでもらいたいということでした。いつかの『複眼鏡』の『かっぽう着への思いを知らされて』です。読んでいくうちに前の席で涙している人を見て自分も眼(め)がかすれかけていました」
 4年前の5月掲載のそれは、三種町の橋本五郎文庫開設1周年記念会で女優の浅利香津代さんが橋本さんの母親のヤヱさんの随想「かっぽう着」を朗読、会場が泣いたことを認(したた)めたもの。
 昭和の母たちの労苦や涙をかっぽう着こそが知っていることを綴ったものだが、サロン会で読み上げた女性の手紙には「聞いている人たちもそれぞれのかっぽう着があり、自分たちの来し方に重ねての涙であったと思います」と。ヤヱさんの文章に共感が広がったことをうれしく感じた。
 読者に叱られ、教えられた1年。それを励みに来年も踏ん張る。

(2016.12.31 八代 保)


 

 

右往左往しながら

 

 北羽新報は、きょう付で紙齢3万号を迎えた。創刊から120年余、長い年月を重ねながら、地域の出来事を見て、聞いて、記事にしてきた。2万号は私の入社3年目のこと。振り返ると3万号までの28年余の間、この地域や弊紙を取り巻く状況は大きく様変わりした。今後も変わりゆく地域の報道に、地元紙の使命を胸に励んでいきたい。
 弊社の報道部記者は本社13人、3支社局各1人の男女16人。朝9時すぎ、各紙にざっと目を通すことから記者たちの1日は始まる。「板」と呼ぶ出稿予定版にその日の出稿予定を記入した後、それぞれの取材先に散っていく。
 市・町政や商工業、農業、教育、福祉、文化、スポーツ、警察など、各担当先で取材し、帰社して原稿を書き上げる。取材時間にもよるが、だいたい午後5~6時ごろまでには出稿を済ませ、遅れる場合は事前に申し出る。取材が混む時は、パソコン持参で駆け回り、合間に書いてメールで整理デスクに送る。夕方以降も、紙面に組み上がった記事の校正、予定がある記者は夜の取材と続く。
 もちろん、何もない日もある。そういう時は「ひまダネ」といわれる事前に用意しておいたネタで記事を書き、それもない時はネタ探しに焦る。出稿量にノルマがあるわけではないが、記事を出せない都合の悪さといったらない。〝ネタの引き出し〟をどれだけ持っているかは、各記者の問題意識と力量にかかわるだけに悩みは尽きない。
 「それは言えない」「資料は出せない」「関係者のみの会議なので取材はお断り」。そんな場面にも、たびたび遭遇する。相手にも事情があるとはいえ、なぜ隠すんだと思ってしまうのが記者の習性で、隠されるほど知りたくなる。そこから、かけ引きが始まるわけだが、正面突破を試みて失敗したり、別の入り口を探って遠回りしてたどり着いたりと、正解というものはない。諦めない熱心な記者ほど、つらそうな顔になる。
 見て、聞いて、考え悩みながら記事にする。報道の現場には、常に記者たちの右往左往がある。もがいて書いた記事ほど読者の反応は良い。現場から離れた今、ガンバレと送り出す。

(2016.12.30 伊藤 仁)


 

 

1枚のファクス

 

 日々、大量に流れてくるファクスに目を通す。行事の案内やスポーツ大会の結果、投稿とさまざまだ。その中に、広告部からの死亡広告もある。公職にあった人が亡くなると、経歴などを記事にし伝える。かつて世話になった人たちの死を、届いたファクス用紙で知り、在りし日をしのんだり、遺族の名前から親戚関係に初めて気付かされたりする。
 死亡広告の文面を見ると、近年は葬儀を「近親者にて執り行い」とし、紙面掲載は葬儀終了後にという遺族が多くなった。また、遺体を葬祭場に安置し、遺族もそこに滞在するなど、葬儀事情が変わってきたとも感じる。
 7月のある日、1枚のファクスを目にし一瞬、頭が真っ白になった。幼なじみの訃報を伝えるものだった。保育園の頃から半世紀以上、青春時代をともに過ごし、社会人になると、仲間で定期的に集まっていた。それが、数年前から引きこもり気味となり、近年は会うこともなく、連絡も途絶えてしまっていた。
 文面によると、葬儀は翌日で、新聞掲載はその後にとのことだった。この職場にいなかったら、それまで知らずにいたかもしれない。数人の仲間に電話を入れ、まずは顔を拝みたいとその夜、彼の家へ向かったが留守で、どうにか安置されている葬祭場が分かり急行。久々に再会した彼は穏やかな顔で永い眠りについていた。「苦しかったべ。ゆっくりせえな」と声を掛けるのがやっとだった。
 翌日、火葬と葬儀を終え、仲間で常連だった居酒屋に繰り出し追悼の酒を飲んだ。彼の分の生ビールも頼み、思い出話は尽きない。誰もが、何か力になれなかったか、もっと会っておけばよかったと悔やんだ。
 それから1カ月もたたない旧盆中、中学卒業40周年の同期会・同級会があった。彼を知る皆が、急逝を驚き、近況や亡くなった時の様子を聞いてきた。決して埋めることができない、会えていなかった「空白の期間」を、改めて後悔させられた。
 そういえば、同級会では長年、東京・築地市場でマグロの卸に携わる仲間が、住まいも変え、いよいよ豊洲市場に移ると話していた。どうしているのか。
 50代半ば、それぞれの年の瀬である。

(2016.12.29 池端 雅彦)


 

 

漢字の〝伝え方〟

 

 メダルラッシュで盛り上がった今夏のリオデジャネイロ五輪で、日本バドミントン史上初の金メダルを獲得した高橋礼華選手(26)と松友美佐紀選手(24)の「タカマツペア」。高校時代からペアを組む2人は、醸成された「あうんの呼吸」を大舞台で発揮し、快挙を成し遂げたそうだ。
 「気持ちの一致」や「微妙なタイミング」を表す「あうんの呼吸」。これが実に難しいと痛感する場面が日常の仕事の中にある。
 編集局内では、報道部、整理部問わず、「読み合わせ」と呼ばれる校正作業が日々、あちらこちらで繰り返されている。人名や数字などに間違いがないように行われる作業は、2人一組になって一人が名簿などを読み上げ、もう一人が校正紙を確認する。
 「高橋礼華」の場合、「高い低いのタカ、架け橋のハシ(またはブリッジ)、お礼のレイ、中華のカ」という具合に字解きする。
 「松友美佐紀」なら、「松原のマツ、友達のトモ、美しいのミ、佐藤さんのサ、紀元節のキ」といった感じに。
 この作業は、相手が分かるような一般的な例えで読み上げるのが約束事で、特に決まりがあるわけではないから説明に用いる単語や熟語などの選択は自由。それに卓越した漢字能力は必要としない。しかし、これがそう簡単ではないのである。
 2人一組のペアは日々相手が異なり、40代の記者と20代が組むことも。すると、同世代では共有できる、例えば「淳」は「桜田淳子のジュン」、「肇」は「ハナ肇のハジメ」、「丹」は「丹波哲郎のタン」といった字解きが通じないことがある。
 読み合わせはテンポ良く、リズミカルに行うのが理想だ。息が合った作業は気持ちがいい。だが、年代や個性も違う相手が理解できる単語や熟語を即座に発想し、伝えるには瞬発力が必要。そこに正確性が求められるために慎重さも大切となる。
 読者にとって誤字や脱字がない新聞は当たり前。しかし、読み合わせでの修正も当たり前で、そのたびに作業の重要性を認識させられている。これは「地味にスゴイ!」と。「会心の発見」「いい仕事」をした時には、ひそかに「自分で自分を褒めたい」。そう思う。

(2016.12.28 工藤 剛起)


 

 

観光振興への挑戦

 

 4月から大館北秋担当となった。北海道新幹線が開通した今年、大館市をはじめ、北秋田市、小坂町、上小阿仁村の4市町村が新たな観光戦略を展開している。その中では、首長自らが「能代市とも連携し…」と広域的な協力を公言しているが、その一方で激しい地域間競争時代に突入したことを実感させる。
 大館市は、北海道新幹線の開業を機に、かねてから海外観光客に人気がある函館と、同じく観光地としての知名度が比較的高い角館の「館」の地名を持つ3市を「3D」と呼称。来日した観光客が函館から弘前、大館、角館へと足を延ばし、そして仙台から帰国する南北ラインの観光ルート化構想を描き、加えて能代市を含めた東西軸の観光ラインも組み込む。
 さらに4市町村は今年度、秋田犬ツーリズムを組織し、ビッグデータの活用や観光メニューの開発など観光振興策の研究を進めている。各分野の専門家を招いた講演などの中で興味を引かれたのは、「スマートフォンに対応した動画が鍵になる」という指摘。それを動画投稿サイト「ユーチューブ」に投稿し、いかに世界中の人に見てもらうか。「外国人がその地を訪れるきっかけは、動画を見て興味を持つこと」なのだという。
 講師が言わんとするのは要するに、「何でも試し、製作してみるといい。外国人に何がウケるかは未知数」ということだと自分なりに解釈した。そこで生まれたのが秋田犬を擬人化した動画。われわれ秋田人には突飛に見えるが、仮に今回は世界にウケなくとも、試行錯誤を続けるといつか「当たる」可能性は高い。これら研究、挑戦が近い将来実を結び、大館、北秋田などが観光客の取り込みに成果を上げようとする時、能代山本は、お隣さんのにぎわいをただ見ているだけだろうか。
 大館市長は、「決して大館が良ければいいというのではない。能代山本も一緒に」と力を込める。他方、し烈な地域間競争が始まっており、観光振興策という面では同市を中心とした自治体が一歩リードしていると思える。少なくとも、既存の観光政策とは違う新たな可能性に積極果敢に挑戦していると映る。わがふるさとも、時代に乗り遅れることなく──と願う。

(2016.12.27 岡本 泰)


 

 

カタカナ語の氾濫

 

 氾濫するカタカナ語が分からない。周知の外来語も分からなくなってきた。何を指すのか、既存の理解では追い付かない。そこに、インターネットが絡むと「?」の迷宮に入る。その一つが「メディア」だった。
 藤里町が、自然に囲まれた数カ所のステージを巡りながらヒップホップ音楽を聴く催しを開いた。それ自体は面白い試みだと思うが、事前の情報発信はホームページ(HP)やSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)のツイッター、フェイスブックとインターネット上のみで、ワカモノはすんなり分かるのであろうカタカナやアルファベットがあふれ、理解と記事化に難渋した。
 例えば「誰が」。「FujisatoREC + lute presents」とある。固有名詞らしいモノが出てきた。問い合わせ先のNPO法人に「lute」って何ですかと尋ねると、「ユーチューブにミュージックビデオをアップしているメディア」だそうで、映像制作会社ですかと聞いたら、会社でも団体でもなく、「メディアですね」。「メディアとしか言いようがないですね」「マスメディアって知ってますよね?」…知ってるつもりです、直に訳せば「媒体」ですが。腑に落ちないまま電話を切った。ちなみに、ある出演者の紹介文は「新進気鋭のトラックメイカーで、キュートなポップアイコン」。さあ、どうする。どうしよう。
 言葉は、時代と共に変化するものと思っている。抗(あらが)う気はない。が、HP、ブログ、SNSと、インターネットの活用が当たり前のようになるにつれ、外国語をカタカナに変えただけの単語、一人称の情報発信が増えていないか。「私」「私たち」と感性や波長が合う者、使う言葉を共有する者同士、分かる人には分かる、分かる人が分かればいい、分からない人は要らない。そんな風潮が生まれてはいないか。
 鬼籍に入った大先輩から「北羽は、小学生から年寄りまで読むのだ」と、できるだけ平易な言葉を使い、外来語やカタカナ語は安易に使わないよう、教えられた覚えがある。情報に、記者として介在することの意義を問い返してみる。垂れ流しにはしたくないんでね。

(2016.12.26 渡部 祐木子)


 

人生の「銀メダル」

 

 数年ぶりに本社勤務となり、右も左も分からないまま過ごした感がある。その上、個人的には体調を崩すなどして周りに迷惑を掛けてしまった1年を振り返ると、ただただ「ハンセイ」の文字しか浮かばない。そんな2016年。仕事の上では「シルバー」の文字で言い表せる年だった。
 4、5月にかけ、弊社創業者・島田五空の娘に当たる三浦つるねさんの聞き書きを担当した。大正5年生まれの当時99歳。6月には100歳を迎えられた。ちょっと耳は遠いけど元気な人だと聞いてはいたが、なにせ100歳。「昔の記憶はおぼろだろうし、手間のかかる企画になりそうだ」と臨んだのだが、杞憂に終わった。何せ、元気なのだ。
 旧若美町で育った子ども時代、代々医者で名家だった母親の実家の様子、大阪での生活、能代に来てから、結婚し森岳に移り住んでの悲喜こもごも──。思い出がまるで昨日のことのように言葉としてあふれ出る。びっくりしたのは、急に来客があったときのこと。すっと立ち上がり、よどみのない小走りで玄関まで出て行く。年がちょうど半分の当方でさえ、「どっこらしょ」と言わなければならないのに、100歳にしてこの“健脚”。話も面白く、6回通ったインタビューは、笑いの絶えないものとなった。
 9月には、本紙恒例の敬老月間企画で、90歳以上の男女7人のお宅を訪れた。ほとんど全ての人に共通していたのは「生きがい」を持っていること。藤里の小森フミさんは趣味の範囲を遥かに超えた「ちぎり絵」、能代市の小柴ナツさんはデイサービスでの交流、八峰町の高田勝美さんは大工だった腕を生かし正月のしめ飾り作り、二ツ井町の佐藤ヤエさんは一人旅──などなど。それぞれ若い頃は仕事を持ち、あるいは家庭を守り、戦前・戦中・戦後を必死で生きてきたからこその今がある。
 冒頭で「シルバー」としたのは、この1年で多くのシルバー世代の方たちに出会ったということだが、オリンピックイヤーにちなみ「銀メダル」という意味でもある。「なぜ、金じゃないの」って? 皆さん90を超えても、まだまだ「人生の金メダル」を目指している“現役”だからです。

(2016.12.25 戸田 章二)


 

歴史の里の謎解き

 

 18日で毎日曜夜の楽しみが終わった。NHK大河ドラマ「真田丸」だ。三谷幸喜脚本によるところは大きいにしても、やはり大河は、名立たる大名・武将たちが生き残りを懸けてサバイバルを繰り広げる戦国時代モノに限る、と改めて感じた。
 戦国時代と言えば(かなり強引ですが…)能代では今年、戦国大名・安東愛季(ちかすえ)(1539~1587年)らが居城とした「桧山城」跡(国指定史跡)の発掘調査事業が始まった。城跡の発掘は過去に一度も行われたことがなく、史跡の主要部分の土地が寄贈されたのをきっかけに、市教育委員会が歴史公園としての環境整備を進める一環で6月に着手した。
 桧山城は馬蹄(ばてい)形の尾根全体を天然の要害とし、城の入り口である枡形虎口をはじめ曲輪、堀切、土塁といった遺構が良好な姿で現存している。史跡檜山安東氏城館跡調査整備委員会委員長を務める斉藤利男さん(弘前大名誉教授)は「こんなにいい状態で残る山城はざらにない。規模も春日山城より大きく、おそらく日本最大。まさに名城」と評価する。
 春日山城(新潟県上越市)は真田丸の主要キャストだった上杉景勝(遠藤憲一!)の城であり、主人公・真田信繁が人質で入った地としても有名。それをしのぐスケールの城がこの地に、しかも400年以上も前の状態を残してあるなんて、歴史好きの市民にとってこんなに誇らしいことはない。と同時に、これほどの宝物が半ば放っておかれたままになっていたのが不思議なくらいでもある。
 ともあれ、城跡を「後世まで保存」し、「地域活性化の核と成し得るような整備を行っていく」(環境整備計画)という市教委の意気込みの下、発掘は38年度まで11年間にわたり続く予定。通称三の丸で行われた初年度の調査では期待された建物跡などは見つからなかったが、今後二の丸、本丸と続いていく中で数々の謎が解き明かされ、さらには檜山安東氏の偉大さもうかがえるような大発見があることも願い、行方を見守っていきたい。
 余談ですが、本丸~館神堂のルートなど、城跡には大河のロケ地に最適とみられる箇所が随所に。関係者の皆さん、ちょっと頑張ってみませんか。

(2016.12.24 平川 貢)


 

 

3号機効果に知恵を

 

 地域の人々が待ち望んだ東北電力能代火力発電所3号機の建設工事が今年2月に始まった。総事業費は約1千億円。運転開始の32年6月まで4年余で工事受注、雇用拡大、宿泊施設や飲食店への影響などさまざまな経済効果が期待される。ただ目の前に果実があるのに、肝心の地元事業者が受け身の姿勢なのが気掛かりだ。
 地元業者による関連工事の受注状況がはかばかしくない。大手メーカーは専門性が求められる仕事だけでなく、汎(はん)用性の高い工事でも競争力を発揮しているためだ。地元業者は宿泊費がいらず有利な面もあるが、請負工事でも大手の競争力に苦戦しているようだ。
 戦略に長けた大手メーカーは3号機新設のような公共性の高い大型事業を落札すると、企業イメージの向上につながるため必死に動く。工事単体では不採算でも宣伝効果が見込めれば、各社は案件獲得に踏み切る。名刺の裏に受注実績を書く企業もあり「能代火力3号機受注」とうたうだけで箔(はく)が付く。県北沖で洋上風力発電事業を計画するゼネコン大手の大林組が各地で大型事業を赤字覚悟で単独施工するのも、ブランド力を磨き、技術力をアピールするためだ。
 3号機の工事が一段落すると、秋田港で石炭火力発電所の建設が始まる。3号機工事で実績をつくることができれば、秋田港火力工事でも参入のチャンスが広がる。3号機だけで儲(もう)けるという発想でなく、先を見据えて知恵を絞ってほしい。
 さらに大局観に立つと、5、6年に運転開始した能代火力1、2号機の最新設備への更新の仕事も見えてくる。一般に火力設備の寿命は40年とされる。家電と違って壊れるまで使うわけにはいかないので、平成40年ごろに改造や建て替えの時期が来るかもしれない。3号機工事を通じて成長できた業者は、完成後もメンテナンス業務や設備更新など長期にわたって恩恵を受ける可能性が高まる。
 3号機レースの号砲は鳴った。秋田市でも大手グループ会社が飲食、送迎、宿泊などを一括提供し、手厚いサービスで工事従事者を囲い込む動きが出てきた。待望の事業を地域活性化につなげるためにも、今こそ地元業者の底力が試される。

(2016.12.23 若狭 基)


 

 

地域活性化への条件

 

 記者「甲子園出場決定の電話を待つ校長先生のようですね」──。八峰町役場応接室で、八峰白神ジオパーク推進協議会の辻正英会長は、日本ジオパーク委員会からの報告を電話機の前で待っていた。再認定審査の結果が知らされることになっており、協議会スタッフや町の担当職員もため息をつきながらそわそわ。受話器の向こうから告げられた結果は「条件付き」での再認定だった。関係者が目指していたのは、当然ながら4年間の再認定。条件付きでは2年後に再び審査を受けることになるので、いわば「イエローカード」を出された格好だ。
 八峰白神ジオパークは、24年9月に認定を受けた。海岸に沿って特徴的な岩石や地層・地形の観察ポイントが41カ所設定されており、環境教育や観光面での活用が進められてきた。海底火山から流れ出た溶岩が冷えて固まった時にできた「柱状節理」など、子どものころ連れてきてもらった海水浴で遊び場にしていた岩場を、貴重な造形美と捉えれば楽しい。男鹿半島の「ゴジラ岩」ほど知名度はないかもしれないが、人面岩もある。
 初めて認定を受けた際に、委員会から指摘された事項はガイドのスキルアップなど15項目。世界自然遺産・白神山地の成り立ちを海辺の岩などから観察できることが特徴としているが、「白神山地とのかかわりをどうアピールするか」が重い課題だった。辻会長は「大きな課題が残っていたが、2年後の再認定に向け頑張りたい」と前を向いた。審査では4年間の取り組みが問われたが、多くの課題を克服し、貴重な地域資源として磨き上げるためのマンパワーは十分だったか。活動を継続していくなら、予算付けや体制の見直しも必要だろう。
 「ジオパークは目的ではなく、地域活性化のためのツール」。審査員が言ったように、今回の審査はジオパーク活動の意義を再認識する機会になった。ジオ関連の動きを逐一記事にしてきたつもりが、課題にはあまり目を向けていなかったと、反省もしている。条件付き再認定に「力が足りなくてすみません…」と沈痛な表情を見せた担当職員の方、こちらこそ力が足りなくてすみません。

(2016.12.22 菊地 健太郎)


 

 

働く誇り伝えたい

 

 取材交渉が難航し、心が折れそうになった。電話をしては断られ続け、20数件目でようやく承諾してもらえた時には、この地域の将来への不安に襲われていた。9月16日に解禁された来春高校卒業予定者の就職試験取材でのことだ。
 「解禁日には試験を予定していないので」という返答は想定内だったが、「求人を出しても応募がない。残念だけど期待に添えない」という声が複数あったことに大きなショックを受けた。
 高卒予定者の就職戦線は大詰めを迎えている。ハローワーク能代によると、11月末現在で県内に就職が決まった生徒のうち、能代山本への内定は37・7%にとどまる。地元就職の割合は、県内の他地域より低い傾向にあるという。
 要因の一つが大都市圏の求人増。今年、能代工高に提出された県外求人は850件を超えた。近年は増加基調で、3年前の2倍に上る。進路指導担当者は「東京五輪や震災復興需要の影響か、完全な『売り手市場』。生徒が地元求人に目を向けにくい状況にある」と話す。
 能代市内のある製造業の会社は、大企業と取り引きし、先進的な技術を開発して輸出も視野に入れている。それでも就職試験の解禁後しばらく応募がなく、2カ月ほどしてようやく1人を採用できた。
 面接試験の際、工場を見学した生徒は「能代でも世界とつながる仕事ができることに驚いた。頑張って働きたい」と話したという。「企業が持つ技術や仕事のやりがいについて、もっと生徒に知ってもらう仕組みを考えなければ」。社長は、会社の将来を担う次世代の育成に危機感をにじませた。
 先日、新入社員を対象に開かれたセミナーで、春から整備士として働き始めた八峰町の男性(19)が話していた。「修理が終わった車両をお客さんに届けに向かう途中、充実感がこみ上げてきた」。入社からわずか半年余で、仕事のやりがいをしっかりと感じている姿勢が頼もしく、発奮を促された気分だった。
 この地で働く人たちの真剣に仕事と向き合う思いを、胸を張って若い世代に伝えることが、厳しい現状を打開するきっかけにならないだろうか。

(2016.12.21 川尻 昭吾)


 

 

〝遊び場〟の再生

 

 雪よ、石倉山を白く染めろ──。無数の雑木が消えた三種町の旧石倉山スキー場を見て、そう願わずにいられなかった。
 同町や能代市の男女約20人でつくる「三種で遊び隊」(佐々木政幸隊長)。スキー場の復活を計画し、4月から雑木の伐採やロッジの片付けに取り組んできた。
 6月、彼らの姿を取材した。斜面には数え切れないほど松の木が生えていた。スキー場が使われなくなって13年ほど。地域の明るい話題として記事にしたが、その光景を見て、心の中で「これは無理だ」と思った。
 彼らのことを忘れかけた12月上旬、「作業が一段落した」と佐々木隊長から電話があった。現場を見て、震えた。あれだけあった松の木がすっきりと除去され、ゲレンデが創出されていた。不用品だらけのロッジは入念に掃除され、着替えのスペースまで確保していた。
 作業は苦難の連続だった。草刈り機が壊れた。何度も重機が必要で、大幅な予算不足に陥った。仕事や家庭の都合で、集まれるメンバーは毎回3、4人程度だった。家族にすら「何やってんの」、「できるはずがない」と言われていた。
 それでも、諦めなかった。家族で楽しめる遊び場を町につくり、森岳温泉の利用促進にもつなげようと、「半ばヤケになっていた」。休日に、平日に、ひたすら地道に作業を続けていた。
 どれほどの汗が石倉山にしみ込んだのだろうか。充実感に満ちたメンバーの表情を見て、「無理だ」と決めつけた自分を恥じた。
 同隊は来年2月5、12日、スキー場の再スタート記念としてスキー教室を計画。対象は子どもで、ゲレンデを上る際は隊員のスノーモービルを活用するという。
 多くの利用者をゲレンデの上に運ぶ手段やスキー用具の確保など、活用上の課題は山積するが、冬遊びのゲレンデは整った。行政は元気づくり支援事業を交付するだけでいいか。教育現場や自治会が積極的に活用する手だてはないか。さまざまな人が関心を寄せ、子どもたちの歓声が響く場所になってほしい。
 だから願う。石倉山よ、真っ白に染まれ。

(2016.12.20 山谷 俊平)


 

 

30年後もこの味を

 

 30年後、あなたは何を食べていたいですか─。そう問われて、真っ先に思い浮かぶのは、白いご飯と味噌(みそ)汁、焼き魚。もちろん、お肉だって食べたい。大好きなそばも寿司(すし)もピザも食べたい。でも、なぜだろう。普段何気なく食べている何の変哲もない、純和食が頭に浮かんでしまう。
 国の研究機関・総合地球環境学研究所(京都市)は、地産地消を基本とした持続可能な食農システムへの転換を求め、県立大などと共同で能代市で研究事業を始めた。
 前述した問いは、市民らを対象に実施したワークショップでテーマになったもの。年代や性別、職業も違う参加者が思い描いた理想の食卓はくしくもご飯、味噌汁、焼き魚、漬物といった純和食でほぼ一致した。
 同時に参加者が求めていたのは、生産者と顔の見える関係。つまり、この先も地場産の食材を食べ続けたいとの思いだ。
 生産者の高齢化は待ったなしの状態。さらに、見通しはかなり絶望的だが、仮にTPP(環太平洋連携協定)が発効し、外国産の農産物や水産物が大量流入すれば、農家は今以上に厳しい経営を強いられたり、地域の農林漁業そのものが立ち行かなくなったりする可能性だってある。
 理想の食卓に地場産食材を使った純和食が描かれた背景には、地域の農林漁業に対する参加者の不安や危機感が垣間見える。そして、同様の思いを私自身も抱いている。
 農業を担当し、何十年ぶりに土に触った。秋には、春に苗植えをしたサツマイモとネギの収穫を体験し、実りの喜びにも触れた。
 日々の取材では、収穫までの苦労や生産のこだわり、農業への思いなどを生産者から聞く機会も多い。帰り際に頂く抱え切れないほどの野菜や果物がどこか特別な存在に思え、今まで当たり前のように食べてきたコメや地場産の農産物が尊く思えた1年だった。
 ある夫婦が育てた取れたてのキャベツの甘みに感動した。30年後もこのような感動を味わえるのだろうか、地場産の農産物は食べているのだろうかと、ふと思う。地域農業を守り続けていくため、地域を報道する立場から今、何ができるかを考えたい。

(2016.12.19 大柄 沙織)


 

人口減社会に活力を

 

 社会には、人の動きを表す数字があふれている。数字は地域の実情を映し出すだけでなく、課題を浮き彫りにし、時に進むべき方向を考えさせる。
 8万2476人。総務省が今年10月発表した27年国勢調査(確定値)での能代山本の人口(同年10月1日現在)だ。前回22年調査は9万28人、市町村合併前の17年は9万6656人、12年は10万1755人、7年は10万6324人。20年間で2万3800人余り減少した。
 注目すべきは、5年ごとの減り幅だ。7年─12年は4569人減、12年─17年が5099人減、17年─22年が6628人減、22年─27年が7552人減と調査するたびに拡大し、自然減や人口流出などの実態が浮かび上がる。
 能代山本に限らず、日本そのものが本格的な人口減少社会に突入している中で、地域に活力を与えるのは、やはり人だと考える。「分母」が小さくなっているからこそ、1人ひとりの役割は大きく、そして重要になる。
 4月以降、秋田市を拠点に取材をし、振り返れば、今年も人との出会いに恵まれた。
 国政選挙で初めて「18歳選挙権」が適用された夏の参院選を通じて知り合った男性は「『選挙に行っても政治は変わらない』などと政治に対して諦めの気持ちを持ってほしくない」と考え、若い世代を中心とした有権者に暮らしと政治の関わりを説きながら投票を呼び掛けていた。
 付記すれば、能代山本の10代の投票率は▽能代市36・51%▽藤里町45・83%▽三種町45・97%▽八峰町45・37%──で、本県の有権者全体の60・87%を下回った。
 9月には、ひとり親家庭などの子どもを対象に食事の支援を始めた女性から話を聞いた。ここ数年、県内のひとり親家庭の子ども(20歳未満)は2万人前後で推移。親の仕事により、1人で食事をする子どももいる。料理は市民から無償で譲り受けた食材を使う。女性は「私はたくさんの食料を買うことはできないが、提供を呼び掛けることはできる」と語った。
 社会の実情を示す数値が厳しくとも、現実を受け止め、行動を起こす人の取り組みは地域に光を当てる。

(2016.12.17 宮腰 友治)


 

オンリーワン求めて

 

 毎週火曜日掲載のスポーツ特集ページ「SPORTS HOKUU」がスタートして1年半になる。週1回のこのコーナー、少しは読者の方に定着しただろうか。
 取材対象は、能代山本から全国大会に出場して活躍する選手をはじめ、通常の記事では紹介する機会が少ないチーム、選手を支えるマネジャーや指導者までさまざまだ。今年は、どちらかというとこれまでスポットが当たらなかった選手を多く取り上げた。
 初めて取材を受けるという選手も多く、インタビューで照れた表情を見せたり、写真撮影で盛り上がったりと、こちらも新鮮な気持ちで取材した。
 秋には、県北新人大会で優勝した能代西高柔道部や能代高剣道部を紹介。その後、両チームとも全県大会で目標順位を達成し、東北大会出場を決めた。「記事が少しでも力になってくれたのなら」とうれしくなった。
 新聞で取り上げるには理由が必要だ。通常の紙面では必然的に全県大会の優勝選手や全国大会に出場するチームなど、「強い」選手を紹介することが増える。インターハイや国体、ウインターカップなど全国大会の取材に慣れると、「全県で優勝して当たり前」という感覚にもなってくる。
 しかし、スポ少の交流大会や中学、高校の地区大会に足を運ぶと、選手のはつらつとしたプレーや真剣な表情に出合う。小さな大会にも必ず駆け付ける保護者の応援も熱い。会場にいる人々の喜怒哀楽がはじける姿に、どんな試合にもドラマがあることに気付く。
「この辺りでは強いけれど、全県ではトップではない」。スポーツ特集でそんな選手たちに話を聞き、試合で勝つこと、活躍することは並大抵のことではない、と改めて教えてもらった。全県、東北、全国で活躍することはどれほどすごいことなのか。取材機会の多い「強い」選手に対しては、今まで以上に尊敬の気持ちが強くなった。
 6年前、入社した年の社員懇親会でSMAPの「世界に一つだけの花」を替え歌で歌った。「小さい記事や大きな記事、一つとして同じものはない」。勝ち負けを越えたものを伝えられるように、来年もオンリーワンの記事を届けたい。

(2016.12.17 成田 結子)


スポーツからの学び

 

 能代市の渟西小で7月、午前中に1学期の終業式を終えたばかりの校舎を訪れたのは同市大町出身の体操五輪金メダリスト、小野喬さん(85)=東京都=だった。開校10年を迎えたことを記念して作られた校訓を揮毫(きごう)するために、〝母校〟に帰って来た。
 一足早く教室に入り、小野さんの到着を待った。世界に名をとどろかせた人、と意識すると緊張が高まったが、姿を現した小野さんは拍子抜けするほどににこやかだった。書き上がった校訓「立志」の2文字は、小野さんの生き様を表すような言葉だった。
 校長室へ移動すると、旧渟一小に通っていた子ども時代、全国制覇をした旧制能代中学の選手たちの演技を見て、学校のプール近くにあった砂場の鉄棒で練習をした思い出を懐かしそうに話してくれた。「子どもの時に出合うものや人、環境は大きい」と語った。
 遠征先の欧米では地域単位でスポーツクラブがあり、市民も五輪選手も一緒に汗を流す環境を目の当たりにした。「赤ちゃんからお年寄りまで同じ場所でスポーツをする。子どもは地域の人たちに見守られ、応援されていることを肌身で感じられる」。競技の楽しさや技術だけではなく、大人も子どもから人間的なことを学ぶという。
 現役引退翌年の昭和40年に池上スポーツクラブを開設。学校の運動部や実業団が中心だった日本に、生涯スポーツを根付かせようとする挑戦の第一歩を踏み出し、そこから五輪選手も輩出した。
 今秋、私は高校時代の友人に誘われ6年ぶりにバレーボールの大会に参加した。いわゆるママさんチームで、最高齢者は70歳。選手は子ども連れで練習に来ることもあり、コート脇で泣き始めるとみんなで声を掛け、小学生はボール拾いを手伝ったりする。友人もそうしてチームの人たちに見守られてきたのだと聞き、小野さんの話した「人間的なものを学び合う」ことの心地良さを感じた。
 競技者としてストイックに練習に励み、世界の頂点に立った小野さんが願うことは、なんて穏やかで優しいことなのだろうとギャップに驚いたが、それを日本に浸透させたいという高い志に、変わらない強い姿が見えた。

(2016.12.16 佐藤 詩織)


「クマ出没」に緊張

 

 5月28日朝、能代市河戸川字西堂前の田んぼにクマがいると、ドライバーから能代署に通報があった。情報を得て現場に向かったが、近くには能代南中がある。土曜日だったが、おそらく部活動で学校にいる生徒もいるのでは──。鹿角市ではクマに襲われた人が死亡した事故が相次いで発生したこともあり、不安を抱えながら車を走らせた。
 現場到着後、すぐにカメラを構えたが、クマは出て来ない。山本地方連合猟友会などが警戒に当たり、周辺は何ともいえない緊張感に包まれた。1時間30分ほどが経過すると、猛スピードで走るクマが現れた。すぐ姿を消したが、走り去った方向に車で向かった。
 クマを追っている時、間近で写真に収めたいという気持ちの高ぶり、もし襲われたらどうしようという不安で体が震えた。黒い獣が車体の左前方に勢いよく出て来ると、その思いは吹き飛び、体が固まった。まさにクマとの遭遇だった。
 体長約1・2㍍と小さめのツキノワグマだったが、遭遇は想像以上に恐怖だった。怖くて車から降りられず、運転席から写真を撮った。恥ずかしながら、車から降りてカメラを構える勇気は出なかった。出没の連絡を受けた能代南中は部活動を中止し、生徒はいなかった。ほっとした。
 能代署によると、能代山本では昨年を20件も上回る60件の目撃情報があった。8月に人身被害も発生し、藤里町で男性が襲われ軽傷、能代市二ツ井町では女性が顔を引っかかれ、鼻の骨を折るなどの重傷を負った。
 人里にクマが出没する異常事態に、北秋田市の「阿仁熊牧場くまくま園」の園長で獣医師の小松武志さんは、人間社会とクマの生息域の接近を指摘した。
 里山に人が出入りしていた昔、クマの生息域と人間社会の間には森林作業の現場など緩衝地帯が広がり、生息エリアが自然と分かれていた。人が入らなくなったことで緩衝地帯が狭まり、クマと人が接近遭遇するようになったと見方を示した。
 本来山奥に生息するクマの行動範囲は広がっているが、クマが人間社会に出没することはあってはならない。社会全体の問題として捉え、対策を講じる必要性がある。

(2016.12.15 山田 直弥)


ひたむきさ見習って

 

 今春に能代養護学校から名称が変更となった能代支援学校。福祉担当になったことで接点が増え、さまざまな取材でお邪魔させていただいている。児童生徒たちの明るさや各種行事にひたむきに取り組む姿にはいつも元気をもらっている。
 特に、今年で21回目を迎えた恒例行事で、高等部の生徒たちが主役となって舞台を繰り広げるミュージカル公演は、初めての取材ということもあって心に残っている。
 今年は生徒たちが好きな小説の内容を基に、命の大切さをテーマにした感動的な物語を制作。初めて現代を舞台にした作品で、生徒が特技を生かしてパソコンで効果音を付けるといった工夫も凝らした。
 学校での稽古も取材したが、泣き崩れる様子などは真に迫る演技で、足が不自由な生徒も車椅子に乗って上半身を目いっぱい動かしながら自分の役に成り切ろうとしたり、腹の底から声を出したりし、ハンデを感じさせなかった。1人ひとりが「来場した人たちに最高の舞台を見てもらいたい」という熱意を持って取り組む姿に圧倒された。
 10月15日の本公演では、開演前は緊張した様子だったが、舞台が始まるとそれぞれの役割を果たして好演。生徒たちが作詞を担当したオリジナルのエンディングテーマ「ありがとう」も披露してみんなの思いが一つになり、ミュージカルは大成功。稽古の段階から演技を見ていたこともあり、本番の舞台は取材を忘れて見入ってしまい、感動のあまり思わず涙した。
 公演前にうれしい知らせがあったことも心に残った理由の一つ。残念ながらその時は会社にいなかったのだが、取材を終えて戻ると「新聞に掲載された稽古の記事をミュージカルのプログラムに使用させてほしい」と学校から申し出があったと聞かされた。
 当日の取材で受け取ったプログラムを確認してみると、1ページをまるまる使って私の書いた記事が紹介されており、ありがたい気持ちでいっぱいになった。
 こうして能代支援学校の皆さんからいただいた元気を糧にし、児童生徒のひたむきさを見習いながら、これからの取材に臨んでいきたい。

(2016.12.14 小林 佑斗)


二つ目のミュージカル

 

 「ヒラケーン、見でらがー。こんたにお客さん集まってけだどー」。満員のホール内から万雷の拍手が降り注ぐ中、舞台フィナーレのあいさつ中に“善(ぜん)ババ”こと今立善子さんが天に向かって叫んだ。ファインダー越しにその光景を目の当たりにし、思わず熱いものがこみ上げてきた。
先月末に上演された能代市民ミュージカルの旗揚げ公演「善婆が語る五能線物語」。チケットは完売、1100人もの観客が市文化会館大ホールの客席を埋め尽くした。それまでの道のりが並大抵でなかったことは、取材を通じて痛感していた。
 市民ミュージカルは、能代ミュージカル制作委員会を脱会したメンバーが中心となり今年7月に発足。しかし、市から補助金が出ないため舞台のスケールは大幅縮小を余儀なくされ、厳しい状況に。そんな中で旗振り役を担ったのが、能代ミュージカル黎明(れいめい)期からの主要メンバー・平川賢悦さんだった。
 取材で何度もお会いしたが、物腰柔らかく温厚で、スマートな立ち居振る舞いがいつも印象に残った。ゆえに、制作委員会を脱会して新しい市民参加型ミュージカルを作るという思い切った決断には驚いたが、それだけ強い信念を心に秘めていたのだろうと思う。
 ここ数年は病魔に冒されていたものの、実行委員長として先導し続けた。しかし本番を2カ月後に控えた9月、脳出血のため65歳でこの世を去った。誰よりも上演を待ち望んでいただけに、どれほど無念で悔しかったか訃報に接し絶句した。
 公演のクライマックスでは、五能線の歴史を題材に平川さんが作詞した「おめでとう五能線」が合唱された。「これからもみんなの夢を乗せて 走れ五能線 線路のように遠くどこまでも」──。優しい人柄が偲(しの)ばれる内容で、大勢の観客に感動を呼び起こした。
 能代に二つの市民参加型ミュージカルが存在する現状に違和感を覚える市民は多いかもしれないが、今立さんが「相乗効果で演劇人口が増え、地域が盛り上がれば」と語るように、前向きに考えればいい面も多いはず。能代のミュージカル文化が今後どう展開していくか、期待しながら追っていきたい。

(2016.12.13 佐藤 拓人)