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2017.記者メモ

2016.記者メモ

 

今ある力を応援する

 

 今月半ば、八峰町峰浜の男性読者からはがきが届いた。「何が原因か分かりませんが、当集落の各家庭で家督を継ぐ人がいなくなり、近い将来、潰(つぶ)れる家が続出します。当家も同じで心配の種です。解決策はあるでしょうか」と。
 指摘されて久しい少子高齢化は加速化し、核家族化が進んで二世代三世代同居が珍しくなり、さらに婚姻率が下がって独身が増え、死別や事情あっての独り暮らしが目立って、住宅街、農林漁村に空き家が増えている。それはそこに住む誰もが理解しているが、改めて隣近所や自治会の現状を数えてみれば、そして自分の将来を案ずれば、家の次々の途絶えに不安を覚え、峰浜の人の声になるのだ。
 胸が塞(ふさ)がれた。「解決策はあるか」と宿題を出されたが、これぞと言う答えはすぐには浮んでこなかった。
 師走も大詰めになって、旧知の能代市内の経営者に告げられた。「頑張っている今ある企業を応援していくべきだよ」と。
 ここ数年、戦後創業して一時代を築いたり、技術力が評価されていた企業、老舗や名門の倒産が目立ち、またひっそりと廃業する商店も相次いでいる。
 35年前に「会社の寿命は30年」(企業が繁栄を謳歌(おうか)できる期間)なる分析が出て、栄枯盛衰は常であると教えられたが、平成の終わりの時代は、あの頃より社会の変化が悠長ではなく、経営も変革が求められるのだから、乗り遅れれば隆盛・堅実もやがて消沈となると、強く感ずる。
 能代山本の経済は人口減もあって縮小、厳しい環境はさらに続くと予想される。けれど、リーダーの先見力と判断力、従業員の創造性やたゆまない努力によって、元気な会社も少なくない。100年を超えてなお踏ん張っている店もある。今ある事業所に頑張ってもらわなければ、わが地はさらに活力が失われていくのだから、件(くだん)の経営者の言う「応援」は大切なことだと気付かされた。それは、起業や地域活動、ボランティアなどにも通ずる。
 曙光(しょこう)を求めるはずの新しい年の前に、希望ある明るい話題を取り上げることができず恐縮至極だが、その現実を、読者と認識を共有して、後ろ向きにならず一歩を踏み出したいと思う。

(2018.12.31 八代 保)


 

どう描く「明日、能代で」

 

 炭鉱の閉山に伴い廃れてしまった架空の町「悲別」。ここを舞台に、脚本家の倉本聰さんは「昨日、悲別で」「今日、悲別で」「明日、悲別で」の3本のシナリオを書いた。書店で目に留まった戯曲集を財布を空にして手に入れ、一気に読んだ。
 「昨日─」は、30年ほど前にテレビドラマになった。その後、「今日─」とともに舞台作品に書き直され、「明日─」は、福島第一原発事故後に書かれた。倉本さんは、長い年月をかけて炭鉱町・悲別の行く末を、閉山後にまちを出て行かざるを得なかった人々の無念と望郷を描き続けた。
 石炭から石油へのエネルギー政策の転換は、炭鉱町にとって、棄民政策にほかならないと倉本さんはいう。原子力も福島では大勢の棄民を生んだ。しかし、ふるさとを離れざるを得ない人々のことや、没落する町のことを、エネルギーの消費者は忘れてしまうか、気にも留めなくなる。
 閉山から20年後という設定の「明日─」では、廃れた悲別の活性化案として、地下1千㍍の廃坑に核廃棄物を埋める最終処分場の誘致話が持ち上がるという展開だ。一方で、まちを去ったかつての若者たちが、ある約束事のために舞い戻る。昔、地下300㍍の坑道に先人が埋めたというタイムカプセルを掘り出そうというのだ。中身は「希望」とだけ伝え聞いていた。
 「地下300㍍の『希望』と地下1千㍍の『絶望』」を巡る人間ドラマを読みながら、わが能代のことが、ふと浮かんできた。
 外国産の石炭を燃やして電力を生む火力発電所。温暖化防止で計画が凍結された3号機は、福島第一原発事故を機に建設が再開され、2年後には運転を開始する。 
 かたや海岸線沿いには再生可能エネルギーの風車が立ち並び、洋上にも計画。八峰─能代─三種の沖合には計100基の大型風車が立ち並ぶ構想も進行している。「地域振興」の名の下、わがまちもエネルギー政策にからめとられようとしている気がした。
 大資本が海外メーカーの風車を回して発電する風力に、どれだけの経済効果があるかは不明だ。健康や環境被害の不安もつきまとう。「明日、能代で」は、どう描かれるのだろうか。

(2018.12.30 伊藤 仁)


 

愛称に頼らずに

 

 大館能代空港が7月18日に開港20周年を迎えた。誘致運動から取材に携わり、「付き合い」は30年にもなる。便数や運航時間帯など課題はあるものの、年に何度か利用する身としては便利さを肌で感じる。
 今年の春先だったか、高齢とおぼしき男性の読者から「新聞では『大館能代空港』と書いているが、看板などは『あきた北空港』となっている。新聞も『あきた北』にしてほしい」旨の電話があった。
 「空港名は『大館能代』が正式で、『あきた北』は愛称です。羽田空港などでの表記も『大館能代』になっています」と対応したものの、確かに圏域を車で走ると空港名の表記が混在している。
 この空港の名称は、当初「県北空港」としていたが、当然これでは分かりにくいと、誘致運動が大詰めとなった平成2年に公募し、延べ725点(365種)が寄せられ、最も多かったのは「秋田北」で「秋北」、「米代」などが上位だった。
 それらの中から翌年、当時の佐々木喜久治知事が「大館能代」と命名した。「県北の代表的都市の大館、能代の中間に位置し、利用者に分かりやすい」と理由付けた。
 しかしその後、県議会でも「大館、能代は全国となれば“読めない”人もいる」と発言が出るなど「場所も分かりづらい」との指摘が多く、9年に空港建設促進期成同盟会が「全国にアピールできる愛称を」と公募、多数の応募の中から「あきた北」を選んだ経緯がある。
 ところが、今年8月に開かれた県北地区の商工団体の会議で、インバウンド(訪日外国人旅行者)を含め国内外からの誘客を推進するため、地域資源を盛り込んだ新たな愛称を考えたらと、大館関係者から提案があった。今、世界的ブームとなっている秋田犬を想定してのものか。
 今後検討が進むだろうが、そうだとしたら「ブームに乗った命名でいいか」、「県北一円にわたるか」、「こちらにも資源はある」などと論争が起こりかねない。名称問題で自治体合併が頓挫したのを目の当たりにした者として、心配してしまう。
 愛称に頼らずに、大館、能代両市をはじめ県北の地域力を高めることが、一番の集客につながると思うが。

(2018.12.29 池端 雅彦)


 

幻の号外 次こそ

 

 新聞社が重大なニュースをいち早く伝えるため臨時に発行する「号外」。明治維新(1868)と同じ150年前、国内最初の号外とされる「別段中外新聞」は発行された。戊辰戦争の局地戦の一つ「上野戦争」を報じたのだという。
 号外は、速報性がとりわけ重視される。原稿の執筆、写真の入稿、校正、紙面の割り付け(レイアウト)といった編集工程には、より一層の速さと正確さが求められるため、作業は常に緊張する。
 号外には悔しい思い出がある。平成24年の全国高校野球選手権秋田大会の決勝。3連覇が懸かった能代商が秋田商に勝てば、号外を発行することが決まっていた。この試合の原稿書きを担当。試合が始まるとテレビを見ながらスコアを付け、どう文章にしようかと考えを巡らせた。
 試合は1回表に能代商が1点先制、その裏に同点に追いつかれたが、6回に2点を挙げて突き放した。ここでパソコンに向かい原稿を打ち始めた。それ以降、テレビは見ていないが、聞こえてくる実況、同僚らの会話の様子からは勝利の瞬間が近づいているようだった。そして9回裏、原稿が完成した。と、その時、社内に悲鳴が響いた。2死走者なしからの逆転サヨナラ負けだった。
 この時に作りかけた号外が今もある。「能代商3年連続甲子園へ」「決勝、秋田商に快勝」と見出しが躍り、「能代商3連覇への足跡」として5枚の写真、勝ち上がり表が割り付けられたところで編集作業は終わっている。自分が書き上げた記事はそこにはなく空欄…。実は、2年後の同大会決勝でも号外の執筆を担当したが、かなわなかった。
 北羽新報が最後に号外を出したのは27年8月26日。全国高校軟式野球選手権大会で能代が準優勝した時だった。弊紙は、スポーツの快挙を報じるケースが多い。
 編集局では今年、号外を2度準備したものの、想定した結果が得られず発行を見送っている。この3年余りの間、同じようなことが幾度もあった。「幻の号外」が手元に増えていく。地域を明るく、元気にするニュースを速報できる機会が早く訪れるように期待している。

(2018.12.28 工藤 剛起)


 

観光、労働に外国人

 

 能代山本にいてはピンとこないが、県北、特に大館や鹿角に足を延ばすと、海外からの観光客が増えていることを実感する。それを能代山本にも呼び込めないかと思う。同時に、観光客のほかに労働力としての外国人が増えたら、地域の姿はどうなるのだろうとも考えさせられる。
 今年は白神山地が世界自然遺産登録25周年だったが、外国人が白神山地を目的に観光旅行したとは、少なくとも自分は聞いたことがない。けれど、大館市、鹿角市、小坂町では、特に台湾からの観光客が珍しくない。
 少し足を延ばせば能代山本。こちらにも呼び込む手はないかと、観光客の姿を見るたびに思う。ただ、今まで異文化と接する機会が少なかった分、たばこの吸い殻のポイ捨てだったり、ささいなことから文化、習慣の違いを意識させられる。
 ある取材の待ち時間に他社の記者と雑談中、今年、新入社員が何人いるか話題になった。その時に彼が言ったことが印象的。「今の学生は売り手市場でうらやましい。私が就職活動していた時はリーマンショックのあおりで景気がひどくて、大学の同級生の就職内定率は6割程度だった」。
 能代山本でも、人手不足、後継者不足は深刻さを増す。後継者がいないという理由で、利益を生み出せるにもかかわらず事業を断念せざるを得ないケースもある。そうした喫緊の課題に応えるのが、政府が進める“外国人材法”らしい。その是非はおくとし、人材不足と後継者不足はまた別の話だと思うが、法律が改正されたら、その効果は能代山本など地方にもあるのだろうか。例によって効果は都市部だけにとどまるのでは。
 もう一つ疑問は、アベノミクスの効果かどうか知らないが、今は人手不足が深刻だとしても、再びリーマンショッククラスの景気の冷え込みがあったらどうなるのだろうか。その時に、日本人と外国人が職を奪い合うのだろうか?
 年々増えていく観光客、これから増えるかもしれない外国人労働者。その時、地域はどうなっているのだろうか。異文化を歓迎し、許容、共存する地域とはいったいどういうものか。その姿を想像し、備える時期なのだろうかと感じる。

(2018.12.27 岡本 泰)


 

優しさからの研究

 

 ありがたいことに丈夫なもので、病院に御縁がなさ過ぎて、医療関係の取材は「へえ〜」の連続だ。病と闘っている方には不謹慎としかられるだろうが、入院中に「普通のこと」を維持するのは、簡単ではないのだと、知る機会に恵まれた。
 その一つが、県看護協会能代山本地区支部の第34回合同研究発表。八つの研究が発表され、その中に「円背の強い体形の特徴に合った食事環境を整えることで、視覚情報がきっかけとなり食事行動が維持されることにつながる」との結論を導き出した研究があった。
 患者は要介護4の高齢者。食事は自力摂取だったが、入院後は他者に依存するようになり全介助に。目線とテーブルの位置が合っていないことが依存的になった理由と考え、理学療法士と連携し介入した、という。
 発表者は若い女性の看護師さんだったと記憶している。観察と気付き、気掛かりに端を発したプロとしての関わり、看護の優しさ、連携で生まれた成果に触れ、患者さんは自分でごはんを食べられるようになったんだね、良かったね、と、思った。…思ったのだが。患者にとって良い結果なのは確かなのだが。どうも違和感が残った。
 「良かったね」?
 背中が丸くなったお年寄りが食事する時、クッションなどで姿勢を保てるようにし、茶わんの中身が見えるようにしたら、自分で食べるようになった。入院前と同じように…そうか。食べようとしている食べ物を「見て、分かって、食べる」は、研究対象になるほどの事案で、「普通のこと」ではなかったのだ。
 入院は治療を受けるため。治療のターゲットは患部だろうし、栄養摂取ができればヒトの生命は保持されるだろうし、空腹がもたらす欲求があれば口を開けるだろう。が、しかし。人間である。感情の生き物である。
 「おいしそうだな」は「食べたいな」「もう一口、食べたいな」を誘う原動力。それを自分でかなえられる環境下なら、きっと治療に向かう体力も気力も、意欲も増す。おいしく食べて、すっきり出して、ぐっすり寝て、治療を受けて…それぞれの生活へ「元気に」帰る。一つひとつの研究が、医療現場の標準仕様になれば、いいなあ。

(2018.12.26 渡部 祐木子)


 

秋田に脚光の年

 

 秋田県民として生を受け40数年たつが、今年ほど秋田が世間の注目を浴びた年は、ちょっと記憶にない。きょう25日は佐竹知事が年末の会見を開いて今年を表す1文字を披露するが、知事もより取り見取りで悩んだのではないだろうか。
 モフモフとした毛並みにつぶらな瞳。秋田犬が近年海外でブームとなっていたところに、2月の平昌(ピョンチャン)冬季五輪フィギュアスケート女子金メダリストのアリーナ・ザギトワ選手が金メダルのご褒美におねだりしたことで、人気が爆発した。知事が「アジアでは秋田県より秋田犬の方が有名」と自虐を述べるほど、この1年で秋田を代表する観光コンテンツとしてすっかり定着した。
 秋田支社勤務となって間もない夏には、県外の人をもフィーバーさせる100年に一度の〝大事件〟が。金足農が甲子園でまさかまさかの準優勝。3回戦・横浜戦での8回逆転3ランや、続く準々決勝・近江戦のサヨナラ2点スクイズのシーンは、今思い出しても胸が熱くなる。
 その快進撃をけん引したのがエースの吉田輝星(こうせい)選手。県大会からいい投手だなとは思っていたが、こんなに大化けするとは。能代山本の地域紙である本紙的に金足農は「ストライク」のニュースソースではないが、「金農・吉田くん狂騒曲」に乗じて甲子園からの凱旋(がいせん)報告会や11月の県民栄誉章授与式などを取材できたのはラッキーだった。
 8月のバドミントン世界選手権女子ダブルスでは北都銀行のナガマツペア(永原和可那、松本麻佑両選手)が優勝を果たし、11月には国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産への登録が決まった男鹿のナマハゲにスポットが当たった。人口減少、自殺率全国ワーストなどとかく暗い話題が多かった本県で、これらのホットな出来事が秋田のイメージをどんどん高め、県民に元気と誇りを与えたのは間違いないところだ。
 2019年は、「能代山本勢」もこの流れに乗ってほしいと願う。県民を熱くし、全国にも轟(とどろ)くグッドニュースを、今度は能代山本から。県庁取材担当として、関係者が知事にニコニコと報告に来てくれるのを待ってます。

(2018.12.25 平川 貢)


 

「真正の利殖」とは

 

 能代山本の海で計画される洋上風力発電事業の在り方をめぐり、能代市議会で議論が活発化してきた。国内に先駆けて建造される大規模な洋上風車群は、エネルギーのまち能代のシンボル的なものとなり、産業創出や経済効果に期待がかかる。
 一方で地球に優しい環境ビジネスが、特定の地域の環境を破壊しては本末転倒だ。丸紅や大林組といった名だたる大企業が地方の海に目を付けた巨大プロジェクト。新しい分野でトップを走ることの優位性と環境リスクは表裏一体にあり、綿密な調査が求められる。
 先の12月市議会一般質問で登壇した市議が、風車の影響でハタハタが接岸しなくなることを心配する漁業者の声を代弁し、陸に近い浅瀬に風車を固定する着床式でなく、沖に浮かべる浮体式への変更を提案。風車を陸から遠ざけて浮かべることが、景観や海流などの環境変化を回避する有力な手立てになるとした。
 洋上風力の先進地欧州では自然や地域との共生を優先して事業を組み立て、産業の創出は二の次という。環境ビジネスは、環境の犠牲の上に成り立つものではないという考えが根本にあるためだ。しかし後発の日本では産業政策の一環でスタートした経緯から、経済の活性化といった利点が強調され、環境対策は後手に回っている。
 由利本荘市沖で計画される世界最大級の洋上風力は、騒音を不安視する市民の反発で雲行きが怪しい。これが頓挫すれば能代山本沖の計画にも飛び火するかもしれない。
 環境は大事だ。だがこの地域の将来を真剣に考えるなら変化を恐れてもいけないと思う。人口が減り活力が低下する中、能代港の機能強化にもつながる洋上風力は可能性を秘めているのだから。
 大手が主導権を握る洋上風力。事業期間は20年と長い。産業創出と環境リスクが隣り合わせにあり、期待と不安が入り交じる──。高校野球の根尾昂選手(大阪桐蔭)も愛読する渋沢栄一の著書「論語と算盤(そろばん)」の中に「真正の利殖(利益)は仁義道徳に基づかなければ、決して永続するものでない」とある。〝実業界の父〟は商業の公共性・社会性の重要性を説き、富豪の拝金主義・利己主義をいさめている。

(2018.12.24 若狭 基)


 

「明日は来るよ」と信じて

 

 「昨日の金足農業のツーランスクイズに感動して、動画を50回は見ました」︱︱。8月19日夕、三種町森岳の惣三郎沼公園で開かれた森岳温泉夏まつりの野外コンサートに出演した歌手の岡本真夜さんが興奮気味に言った。岡本さんはその場で振る舞われた特産のジュンサイを試食し、本番のステージでは「TOMORROW」などのヒット曲を立て続けに披露。人で埋め尽くされた公園は野外フェスさながらの熱気に包まれた。

 「じゅんさいと海といで湯の郷(さと)」の三種町担当になって半年弱。ジュンサイも海も旬な時期を取材してみて、この町にある資源の豊かさを改めて実感している。イベントには必ず登場する流しジュンサイに引き付けられる人の何と多いことか。町観光協会を通じて全国から受け入れた摘み取り体験は5~8月で1300人以上で過去最多を更新したというから、情報発信の成果と産地のブランド力があることの証左だろう。釜谷浜海水浴場でのサンドクラフトは、砂の彫刻もフィナーレの花火も大いに見応えがあった。

 一方で、にぎわいが薄れた森岳温泉街の現状には寂しさを感じた。宿泊や飲食の営業店舗も減り温泉街そのものの縮小が続く中、若手経営者や観光関係者、町職員らで組織する森岳温泉活性化協議会が1年かけて提言書をまとめ、田川町長に提出。提言書には暗いイメージを払拭するための街路灯の増設や新たな足湯、駐車場の整備といったアイデアが並び、温泉街の再活性化を公約の一つに掲げて当選した田川町長が来年度以降、どこまで具体化に踏み込むのか注目される。町民の中には、温泉熱を活用した新規事業の創出といった思い切った施策展開が必要だとする声や「何より温泉街関係者の熱意が鍵を握る」との指摘もある。

 県の音頭で能代山本の広域観光を推進する仕組み(DMO)が始まろうとしている今こそ、「いで湯の郷」の出番とみることもできる。かつてのにぎわいを取り戻すのは「金農の奇跡」ぐらい難しいことかもしれないが、「明日は来るよ、君のために♪」と前向きに歌いながら、来年も再生を目指す動きを追うことにする。

(2018.12.23 菊地 健太郎)


 

つながり生む新聞に

 

 「地域に必要とされる新聞であり続けるために、何をすべきか」。記者になって15年。「今ごろになって」とお叱りを受けそうだが、自分に問い続けなければならないと、心に留めている。
 そう考えるようになったのは、同世代である40歳前後の友人や知人で、購読してくれている世帯が多くないことを、日々の取材や雑談の中で痛感させられたから。より若い世代の状況は推して知るべしだ。
 ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)の普及で、情報の入手・共有手段は多様化した。スマートフォンがあれば、どこにいても必要な情報の多くが手に入る。紙の新聞、特に能代山本地方に特化した情報を提供する「北羽」だからこそできることを考えなければならないが、答えを得るのは簡単ではない。振り返れば、読者の心を引き付けるような読み応えのある記事を書けているか…反省の方が大きい。ただ、先の自問に光が差すような取材もあった。
 10月、能代市浅内地区に伝わる「ナゴメハギ」が継承の危機に直面していると記事にした。山の神にふんした地元の若者が、大みそかに家々を巡って招福を願う来訪神行事。今年は、衣装の材料となる稲わらの確保が困難となっていた。
 取材のきっかけは、保存会会長を務める保坂智之さん(28)がSNSに投稿した窮状の訴えだった。稲刈りの機械化や農家の高齢化により地区内から稲わらを調達することができず、提供協力を呼び掛けていた。
 祖父や父から引き継いできた伝統を守り続けたいという保坂さんの思いを、SNSを使わない人たちも含め、少しでも多くの人に届けたかった。掲載の数日後、「稲わらを確保できるめどが立った」と連絡があった。記事を見た八峰町八森の農業、大高良博さん(71)が提供を申し出てくれた。
 紙面を通じて2人がつながったことがうれしかった。そして、人口減少と活力の衰退という厳しい現状に直面するこの地域だからこそ、新聞の力を信じ、発信し続けたいと改めて思った。「北羽さんがあって良かった」。保坂さんが伝えてくれた言葉を胸に刻み、これからの仕事に向き合っていこう。

(2018.12.22 川尻 昭吾)


 

 

「農」の深堀り もっと

 

 わが家のベランダには今、おいしい食材が豊富にある。ネギ、ゴボウが数十本、ダイコンは3本ほど。いぶりがっこ、キャベツ、ジネンジョは胃に収まって、もう無い。
 どれも、今夏から農業を担当したからこその頂き物。大して遠慮しなかったことを反省しつつ、ありがたく食べている。ちなみにネギは百円のカッターで白髪風にし、フライパンを限界まで熱して炒めるのが旨(うま)い。
 一方、日々の取材の様子を一言で言えば「右往左往」。農業の何をどう原稿にすればいいか、JAや市役所をうろちょろしている。親戚の農家が「農作業をやったことのない俊平に農業が分かるのか」と父に話していたようだが、心配は的中。「はい、まだまだ分からねっス」と答えるほかない。
 苦しいのは、日々の行事が少ない(ように感じる)こと。八峰町や三種町を担当していたときは、行政やまちづくりに関する会議、イベントがしばしばあり、そこを取材して原稿にすることで仕事をした気になれた。それだけで面白い紙面になるかは別問題だけれど。
 ただ、農業に罪はない。特に今年は話題に事欠かなかった。
 農政の大転換と言える減反の廃止、能代山本2JAの合併すら先を見通せない中で方向づけされた県内14JAの一本化、「近年にない不作」と農家が嘆いた30年産米の作柄──。連載や単発記事で書けるものは書いたものの、視点が欠けたり手付かずだったり。問題は自分にこそある。
 会議やイベントが少なくても、一つの出来事を深掘りすること。農業のプロ(農家)ではないことを開き直った上で、むしろ一般の消費者にも分かりやすいようにかみ砕いて報じること。やるべきことは山ほどある。
 少しずつだが、農業分野のつながりが増えてきた。素人でも分かるように作業を教えてくれる農家、Uターンして古里で奮闘する新規就農者、「キャベツの収穫機を使ってるよ」と情報をくれるJA役職員。記者を鍛えてくれる存在との関係を大切に保ちつつ、農家と消費者の関心を呼ぶような記事を書きたい。
 ベランダの野菜をのんきに食べている場合ではない。いや、食べるけど。

(2018.12.21 山谷 俊平)


 

 

地域のシュリンク

 

 今年で開学20周年を迎えた能代市落合の秋田しらかみ看護学院を取材した。初代学院長で学校法人・のしろ文化学園理事長の丹波望さん(84)から話を聞くため、何度か学院を訪問した。また、今夏から勤務している二ツ井支局にも、わざわざ足を運んでもらった。
 丹波さんは私にとって、高校時代に通っていた英語塾「地の塩塾」の恩師。「丹波先生」と呼んだ方がしっくりくる。くしくも同学院が開学した20年前の塾生で、思い返せば、あの時、先生はとても忙しそうだった。
 肝心の英語は今はさっぱりだが、出張などで塾の始まる時間が遅れたり、先生の片耳が突然聞こえなくなったりしても、丁寧に指導してくれた姿は今も鮮明に覚えている。
 地元に看護マンパワーの育成機関を、若者定着を──との願いを込めて開学した同学院。取材では原稿には書き切れないほど、そして、時には「書いても大丈夫かな」と思うほど、開学にまつわるさまざまなエピソードや学院に対する熱い思い、将来の展望などを聞かせてもらった。
 印象的な言葉があった。「地域がシュリンクしている」。シュリンクとは縮小の意味。中心市街地はシャッター街と化し、近年は集落に空き家が増加するなど、地域のコミュニティーの存立が危ぶまれているのは確かだ。
 その影響は学院にも影を落とし、この3年間は「学生の確保にものすごく苦労している」という。生徒数の減少に伴い、看護師を目指す生徒そのものが少なくなってきているのだ。介護職員を目指す能代文化学院(東町)の受講生も同様で、「青息吐息」と話す。急速に進む高齢化で今後ますます医療、看護、介護の働き手は必要となる。そうした働き手がいなくなることも含め、憂うべき状況にあることを改めて痛感した言葉だった。
 1期生から18期生までの国家試験合格率は99%。地元就職率は7割以上。20年の歩みを経て、この地域における同学院の存在意義は大きい。ただ、18歳人口の減少で学生確保に困難を来せば、私立学校は経営悪化に陥る。地域の看護を支える教育機関を守るには、今まで以上に行政や関係機関、市民の支援・協働が求められるはずだ。

(2018.12.20 大柄 沙織)


 

 

森は生き物の原点

 

 本県と青森県にまたがる白神山地は、今月で世界自然遺産の登録から25周年を迎えた。7月に2年余りを過ごした秋田支社から本社に戻り、この半年間は可能な限り、白神山地に関わる人と会い、話を聞いて歩いた。
 8月の「山の日」、小岳に登った。小岳の山頂付近は遺産地域にあり、眼下にはブナをはじめとした原生の森が広がる。「森は生き物の原点。手つかずの森が残っているのは世界的に希少」と語るガイドの表情は晴れ晴れとしていた。
 誇るべき白神の森の現状とは──。近年、対策が急務となっているのはニホンジカだ。農作物に加え、草や葉を食べ、樹皮も剝いで樹木を枯死させる。森林環境が崩れると、土壌が川や海に流れる。生態系、農林漁業に悪影響を及ぼす。ニホンジカ問題は、山だけでの出来事で済まされない。
 環境省は今年、青森県深浦町でニホンジカが越冬した可能性があると明らかにした。寝床とみられる土を掘り起こした痕跡などを「証拠」とし、白神山地周辺でニホンジカが冬を越したとみられる──という調査結果は初めてであり、ニホンジカをめぐる問題は深刻さを増したと言える。
 専門家に聞くと、「ブナの稚樹などが食害に遭うと、次の世代が育たない森になる」「人間の1年や2年といった時間軸で物事を考えてはならない」という言葉が返ってきた。
 行政機関は対策に乗り出そうとするが、「生息が低密度で対応に難しさがある」とも言う。各地の森林に被害を与えてきたニホンジカを過小評価してはならない。
 ともすると、白神山地周辺に暮らす私たち住民は、目撃情報の集積や今後の有害駆除など最前線で保全を担う立場にある。白神山地を活用した地域振興も率先して行動すべきは、この土地に生きる私たちだ。
 10万7373人。白神山地が世界自然遺産に登録された平成5年12月1日時点の能代山本の人口だ。今年11月1日時点は7万7610人で、この25年間で3万人近く減った。
 白神山地に限らず、地域で1人ひとりの役割、連携が求められているのは言うまでもない。

(2018.12.19 宮腰 友治)


 

 

「大将」の教え継いで

 

 3月、一人の名将が80歳で亡くなった。能代工高バスケットボール部を全国屈指の名門校に育て上げ、監督在任の30年間で全国制覇33回の金字塔を打ち立てた加藤広志さん。当時の活躍をリアルタイムでは知らない世代だが、関係者への取材を通して〝大将”の偉大さに触れた。
 3月4日夕、慌ただしく編集作業に追われていた最中に訃報は飛び込んだ。大将が亡くなった──。その場の空気が一瞬凍り付いた直後、社内にいた記者を総動員。同部OBへ連絡を試みたり、自宅や遺体が安置された場所へ急行したりと、夜遅くまで取材に駆け回った。
 翌5日付の紙面で大きく報じた後、掲載し切れなかった教え子らの悲しみの声を続報で伝え、追悼展や葬儀も追った。能代バスケミュージアムで開かれた追悼展には加藤さんの親戚や教え子らが次々に足を運び、在りし日をしのんでいた。
 亡くなった10日後に行われた葬儀には約700人が参列。バスケ界で活躍する教え子の姿も多く、会場に入り切らなかった参列者がホールでスクリーン越しに葬儀を見詰めた。マスコミも多数駆け付け、加藤さんの偉大さ、人望の厚さを目の当たりに。影響力の高さを肌で感じた。
 全国の強豪校が集う能代カップまで2カ月の出来事。「能代カップを見届けてほしかった」「今年こそ強い能代工を見られたはず」と教え子はもちろん、地域住民からも惜しむ声が絶えることはなかった。
 死を悼み、ユニホームに喪章を着けて能代カップを戦った選手たちは、3年ぶりの2勝で復活ののろしを上げ、「バスケの街・能代」のファンに期待感を抱かせた。夏のインターハイ、秋の国体ではそれぞれベスト16に食い込み、伝統の「走るバスケ」が姿を取り戻しつつある。
 今年の戦いを締めくくるウインターカップが、いよいよ23日開幕。能代工は24日の1回戦で、3年ぶりに師走の東京のコートに立つ。対戦相手は長身の外国人留学生を擁する岐阜代表の美濃加茂。加藤さんが指導の身上として、今も受け継がれている長身チームに走るバスケで立ち向かう「高さへの挑戦」の真骨頂に期待したい。

(2018.12.18 山田 直弥)


 

 

「宇宙のまち」見詰め

 

 新聞記者になって6年。振り返ってみるとこれまでさまざまな出来事を取材してきた。中でもしばらく担当が続いている分野に関しては、年を追うごとに移り変わっていく様子を自分の目で見詰めることができ、歴史の一端が感じられる貴重な体験をしているのだと思うようになった。
 これまで幾つかの担当を経験してきたが、最も長く続いているのがロケット分野。入社1年目で能代宇宙イベントの取材に携わり、3年目から現在まで担当を務めてかれこれ5年近く関わっていることになるため、個人的な思い入れも非常に強い。
 特に、全国から宇宙工学を学ぶ大学生らが大勢集う同イベントは取材に最も熱が入る。大学では化学や物理学が専門だったこともあって関心が高く、毎年イベント会場や街なかで参加者たちと触れ合うことで、取材だけではなく私自身にとっても充実した時間を過ごせている。運営側から「小林さんはもう案内役ができるよ」と声を掛けられた時には、これまでの頑張りが報われたような充実感を感じた。
 昨年は韓国の韓国航空大の学生、今年はタイの小中高一貫校・バンコククリスチャンカレッジの高校生が参加するなど国際化も進んでおり、今後はどのようにイベントが発展していくのかが楽しみでならない。
 このほかにも、27年にはJAXA(宇宙航空研究開発機構)能代ロケット実験場で行われた次世代型ロケット「イプシロンロケット」の固体モーターの真空地上燃焼試験を間近で取材するという貴重な体験ができ思わず感動。28年からは「SUWA小型ロケットプロジェクト」に取り組む長野県の諏訪地域6市町村や信州大などが毎年3月に来能して小型ハイブリッドロケットの打ち上げ実験に取り組んでおり、プロジェクトの変遷の一部を取材している。
 これらの取材を通し、私自身が“宇宙のまち能代”の歴史の一端に触れることができているのだと思うと、記事を書きたいという気持ちも高まっていく。これから先もロケット分野の取り組みを取材し続け、能代が宇宙開発のメッカとして発展していく歴史をこの目で見てみたい。

(2018.12.17 小林 佑斗)


 

情報の取捨選択

 

 先輩記者から「編集とは捨てる作業のことだ」という話を聞いたことがある。多くの情報の中から必要な要素を抽出し、残りは削除するという意味だ。最初はよく分からなかったが、教育分野を担当する今年に入ってからその言葉の重さが少しずつ実感できるようになってきた。
 9月6日未明、北海道胆振(いぶり)地方中東部を震源に発生した最大震度7の地震は広範囲に被害をもたらした。能代山本地方では直接的な被害はなかったものの、同時期に函館市への修学旅行を計画していた小学校が多かったことが分かり、その日のうちに4市町の教育委員会と各校に取材。ほとんどで延期を決めたことを短めの記事で出稿した。
 しかし、地震発生当日の6日から1泊2日の日程で出発する予定だった三種町の4校での延期決定には紆余(うよ)曲折があった。同日午前5時ごろ、同町のある教育関係者は、テレビで地震が起きたことを把握した。被害の全容がほとんど明らかになってない中、朝早く出発する学校もあり、速やかに判断を下さなければならない状況。各校の校長らと連絡を取り合い、情報収集もしながら約30分後に中止を決め、保護者に連絡した。
 話は詳しく聞いたものの、このあたりの流れをうっかり“捨てて”書いてしまったため、切迫した状況が一つも伝わらない内容に。のちに上司から「記事にしてもよかったんじゃないか」と指摘され、その通りだったとうなだれた。
 また、ある学校の活動を教育特集面に紹介してから後日、取材先の担当者から「本当はあの話も書いてほしかった」と苦言を呈されたこともあった。相手側にとって大切な部分を軽卒にも省いてしまい、己を恥じるとともに“捨てる”という行為をいかに慎重に行うべきかを再認識した。
 何かの話題を取り扱う際、全てを書き起こして記事にすることは紙面の都合などもあって不可能だ。そのため、どの部分を捨て、何を残すかという行為が必要になるが、それは記者の主観に委ねられている。読み手が本当に欲している情報は何なのか、常に念頭に置きながら来年も編集作業に取り組んでいきたい。

(2018.12.16 佐藤 拓人)


 

まだまだ日々「三省」

 

 月日が経(た)つのは早いもので、気が付けば入社から9カ月が過ぎていた。取材と勉強、そして「吾(われ)日に吾(わ)が身を三省す」を繰り返す毎日だが、社会人1年目の自分にとって、全てが新鮮だった。
 群馬県内の大学で地域政策学を修め、「地元・能代の力になれれば」と思い、北羽新報社に入社した。文章を書くことが好きな自分だが、論文や文芸作品を仕上げるのとは違い、仕事の大変さをひしひしと感じている。
 限られた時間内で、的を射た質問をして要点やコメントをノートに書き殴り、臨場感たっぷりで〝良い〟構図の写真を意識して「バシャバシャ」と連写。しかし会社に戻って、ノートや写真のデータを見返すと、基本的な情報を聞き忘れたり、ピントが合わずぼやけたり…と散々。取材先の方々には迷惑ばかりを掛け、申し訳なさと心苦しさでいっぱいだ。
 そんな私だが、取材を通してありがたみを感じるのは、出会った人たちの温かい言葉や心だ。雑談の中で「県外の大学から戻って来ました」と話すと、口をそろえて「よぐ帰っでけだなぁ」と赤の他人であるはずの私を息子や孫のように接してくれたこと。取材が長引いた時も「なぁも、なぁも。まだ、時間がある時に寄ってけれな」「大変だろうけど、頑張れな」と言葉を掛けられた時は、あまりにうれしく、思わず目頭が熱くなることもあった。
 また、地元を「覚べたふり」していたと思わされることも多々だった。7月から「文化担当」となり、ミュージカルやオペラ、合唱、吹奏楽演奏、郷土芸能、伝統文化の発表会などへと足を向けると、地域を盛り上げようという熱い志を持った会員の姿があった。少子高齢化で会員が減り続ける中、伝統の〝火〟を絶やすまいと次の世代に伝えようと尽力する姿に胸を打たれることが多かった。「ぜひ、会に参加してみねが」とお誘いを受けることも同じくらいに多かったが、私などにはもったいないお言葉。声を掛けられるたびに恐縮しきりだ。
 まだまだ至らず「三省す」るばかりで、「地域の力」となれるまで時間がかかるかもしれない。初心を忘れることなく、地域の声援を背に日々の仕事に取り組みたい。

(2018.12.15 藤田 侑樹)