能代市民体育館のあの頃

(12月23日)

 耐震強度不足から使用中止となった能代市民体育館の周辺を歩いた。さっきのことも昨日のことも忘れがちであるのに、遠いあの頃が鮮明によみがえった。懐かしさを覚え、感傷的になるのは年のせいかと感じつつ。
 市民体育館は、市制20周年記念事業として昭和36年の秋田国体に合わせて建設された。鉄筋コンクリート2階建て2264平方㍍、観客席は2階イス席に立見席含め1200人、フロアにイスを入れると3000人。
 国体では体操の男子会場。郷土の誇り・小野喬さんが出場するとあって人であふれかえっていた。小学校低学年生に観戦の機会はなく、悔しくて駄々をこねたらしく、とある人が機転を利かせて潜り込ませてくれた。見たのは高校の演技。小野さんの弟で個人優勝した喬夫さんの大車輪に、「凄いなあ」と感動した。
 2年後。能代高の硬式野球部が甲子園初出場を決め、歓喜に沸いた。壮行会は市民体育館前で。詰め掛けた大勢の中には自分も。「わがヒーロー」を目の前にして、目を輝かせた。
 同じ年の夏。体育館の前庭で小野喬さんをモデルにしたと思われる像の除幕式が行われた。能代高が昭和12年の明治神宮大会以降、個人・団体で優勝を重ね、35年のローマ五輪で小野喬さんが初の世界制覇。「体操能代の栄光をたたえ、その偉業を長く顕彰する」としたのだ。
 近所のお兄さんとお姉さんで能代高と能代北高の主将が除幕の紐を引き、こちらも誇らしく思った。翌年の東京五輪に「体操ニッポン」の夢を重ねた。
 中学校の球技で敗退、全県出場を絶たれたことや、市民綱引き大会でわずか7秒で敗れたことは苦い思い出である。
 市文化会館が昭和55年秋に開館するまで、公会堂の役割も果たした。東映の「歌う銀幕スター」の公演をのぞきに行ったり、世界的なジャズピアニストに出会い、日本のフォークを聞きに出掛けた。
 築後60年となれば老朽化が目立つ。存続か廃止か結論は先だが、市民体育館が体操能代の記念碑的な建物であり、能代のスポーツ文化の拠点であったことは、歴史に記憶にとどめたい。(八)


「腐れたまぐら」もっと出よ

(12月18日)

 米代川産のヤツメウナギが出回り、能代市内の一部の飲食店でメニューに。
 1月の寒ヤツメが卵いっぱい、脂も乗って一番美味(おい)しいといわれ、それまで待てばいいのだが、厳しい寒の頃に漁がなく、食い外す年があり、獲れているうちに食べようということになったらしく、「ヤツメの会」に誘われた。串焼きも酒粕の入った鍋も乙(おつ)な味で、精が付いたか。
 顎(がく)は無く、口は吸盤状の原始的な生物を無気味と感ずる向きもあり、食わず嫌いも多い。そんな人も参加して、そのぬるぬるくねくねから陸上のミミズ、それの大きく太くしたタマグラミミズに話題が広がり、さらに「腐れたまぐら何さでもはまる」のわが地方に伝わる俚諺(りげん)に及んだ。
 「それってどういう意味?」と1人が発して、わいわいがやがや解説があり、こちらは以前(11年前)に小欄で取り上げたことを紹介したが、いまひとつ納得いかなかったらしく、「載せてちゃんと説明して」と厳しい〝お達し〟を受けた。
 そこで、改めて─。
 「たまくら」は万葉集にも用いられた「玉釧」が後に変わったものと考えられ、「玉釧」は「くしろ」の美称で、「釧」は装身具の腕輪、古墳時代の遺物だそう。
 県教委の「秋田のことば」では、①金属の環で鉈(なた)や鎌などの道具の柄に刃を固定させる部分に用いるものをいう②太いミミズ。首にあたる部分に白い環状の紋があることから「たまくしろ=たまくら」の名で呼んだもの③おせっかい者。「腐れたまくら」「ぼっこれたまくら」の略。腐食した金属環は緩くて何にでも塡(は)まることから、いろいろなことに口出しするお節介(せっかい)者をいうようになったもの──とある。
 ③のような何にでもつべこべはまるお節介者は、①の金属環が腐ったようなものであり、②の太いミミズのごとく忌み嫌われ、「腐れたまぐら」と嘲(あざけ)られ罵(ののし)られるというわけである。
 お節介が度を過ぎては困り者だが、野次馬根性に好奇心旺盛で、「何にでも参加してみよう、行動しよう」という積極性は大切である。元気のない今の能代山本には、「腐れたまぐら」が必要。もっと出ていい。(八)


 

忠臣蔵が人気だった時代

(12月13日)

 小紙の12日付9面の読書欄で紹介した「忠臣蔵映画と日本人 〈雪〉と〈桜〉の美学」の著者は大館市の小松宰(おさむ)さん。面識はないが、同市のタウン誌編集長、北鹿(ほくろく)新聞記者を経て映画評論家になった、大館ではつとに知られた人だ。
 新刊はまだ手にしていないので、内容は書評(評論家の萩尾瞳氏)に頼るしかないが、小松さんは、忠臣蔵の魅力を「日本人が長らく精神のよりどころにしてきたもの」「端的に言えば日本人固有の生死の美学」と結論付けているそうで、〈雪〉は赤穂四十七士の討ち入り、〈桜〉は浅野内匠頭(たくみのかみ)の切腹の場を表しているらしい。
 それを読んで、なぜかいまだに覚えている内匠頭の辞世の句をそらんじた。「風誘う花よりはなお我はまた春の名残をいかにせんとや」。どの作品だったかは忘れたが、白黒映画の内匠頭の死に装束と、はらはらと散る桜の白が鮮明に浮かぶ。
 討ち入りの場面は、少年の頃に夢中で見たNHKの大河ドラマ「赤穂浪士」の長谷川一夫演じる大石内蔵助(くらのすけ)の独特の「おのおの方」のセリフと、矢頭右衛門七(えもしち)役の舟木一夫の顔、さらに芥川也寸志の迫ってくるテーマ音楽がよみがえった。
 小松さんには遠く及ばないが、自分もまた「忠臣蔵」に引かれ、多くの記憶を刻んでいるのだと知った。
 昭和60年12月の平日、能代で「いま忠臣蔵フェスティバル」が開かれた。自主上映グループ・能代シネマヴィルが企画。前年に作家の丸谷才一が出した「忠臣蔵とは何か」がベストセラーとなったことや、その年の1月に能代の全ての映画館が休館し、寂しい思いをしていたファンの「忠臣蔵を見たい」の声に応えたのだ。
 忠臣蔵映画は300本以上製作されているが、上映したのは「忠臣蔵天の巻、地の巻」(昭和13年日活・マキノ正博監督)、「赤穂浪士」(同36年東映・松田正次監督)、「赤穂城断絶」(同58年東映・深作欣二監督)と戦前戦後の名作・大作。それに講演。8時間に延べ200人が訪れ、忠臣蔵人気を見せつけた。
 あれから30年。忠臣蔵は中高年の「思い出」にしかないのだろうか。あす14日は「討ち入りの日」。(八)
 


 

面会は不自由になったけれど…

(12月10日)

 冬。ノロウイルスやインフルエンザなど感染症対策をしなければならないのだ、と高齢者介護施設を訪ねて実感した。そして、チョコチョコッとおざなりに済ませる手洗いと、ガラガラ・ペッを2度して簡単に終わるうがいを、丁寧にしっかりしようと誓った。
 東京在住の人から、鹿児島特産の和菓子を頂いた。軽い食感と優しい甘さ。噛(か)み締めていると、これはお年寄りにぴったりと思い付き、しばらく顔を合わせていない親戚に「お裾分けしよう」と、独り暮らしの彼女が生活拠点としているホームを訪問した。
 いつもは、といっても直近は何カ月か前で、事務室窓口で面会手続きをして、彼女の居室で健康状態、空き家状態の家の状況や家族や親族の暮らしぶりなど四方山(よもやま)話をするのだが、今回は違った。
 まず、玄関で手指のアルコール消毒をした上、用意してあるマスクの着用を求められた。居室での面談はできず、ホールの一角のソファでしてほしいとのことであった。
 マスクをした当方を、彼女は最初は誰だか分からず、職員の声掛けでようやく来訪者を知ることとなった。しかし、マスクをした会話は苦しいは、眼鏡は曇ってくるはで、「じゃあ、元気で」と少し早めにいとまを告げた。
 食べ物の差し入れも避けるようにとされ、持参した菓子2個も原則だめなのだろうけれど、賞味期限はまだ先で、個別包装がしっかりしているので、「珍しいもの」としておやつタイムに出してもらうよう頼んだ。美味(おい)しかっただろうか。
 高齢者が施設内で感染症にかかって重篤になることが、わが地域でもあった。死亡に至れば管理責任を問われる事態になりかねない。施設側が、ピリピリして対策を取るのは当然だろう。外部からウイルスが持ち込まれる可能性も高いのだから、面会が窮屈になるのはやむを得ない。
 感染者が出れば、一定の期間は施設全体が面会禁止となる。今は亡き母が利用していた施設もその措置をとった。家族の来訪がぴったり途絶えて、どんな思いだったろうか。
 面会を維持するためにも、具体的な対応は必要。乗り切って春を迎えたい。(八)
 


 

こはぢゃジャム、じゅみジュース

(12月6日)

 10月下旬。わが家に成った西洋イチジクの実の赤ワイン煮を小さな一瓶、職場の同年代の仲間に「さっとことだども」と渡したところ、後日お返しが届いた。「こはぢゃジャム」であった。
 赤黒い色をしたそれを早速なめると、少し強めの酸味が口の中いっぱいに広がった。「酸っぱい」嫌いの人は顔をしかめるだろうが、こはぢゃ本来の味が伝わってきて、なかなかと感じた。ヨーグルトに混ぜると、一瞬にして赤紫となり、ベリーヨーグルトに変わった。
 こはぢゃ(こはぜ)は、ナツハゼの木の実のことで、ブルーベリーの仲間。果実酒や混ぜ合わせて甘酸っぱいごはんにする人がおり、三種町琴丘の道の駅ではソフトクリームにして販売している。
 てっきり、農産物直売所で買ってきたものかと思ったが、渓流釣りもするアウトドア派の彼が、能代山本の里山で取ってきて、自ら加工にしたものだという。「男の手作りジャム」に感心した。
 先日、とある経営者が「これが、じゅみ」だと、赤い小さな木の実をテーブルに広げ、幼い頃にこうやって食べたと何粒かを口の中に入れ、種と皮を吐き出した。隣にいた部下も同様にして、「オラホだば、じゅめ、と言う」と話した。こちらは実をぽろぽろ落とし、ようやく口に放り込んだが、独特の甘酸っぱさを感じた。
 何日か前の雑談で「木の実」が話題となり、「じゅみ」を知らないとしたことに対する、親切な「教え」であった。「じゅみ(め)」は落葉低木のガマズミのことだそうで、晩秋に燃えるような小さな紅色がたわわに実っているという。
 社長は、それを野山で摘み取り、ジュースにして飲んでいて、小さなペットボトル1本を試飲用にくれた。ほどよい酸味と爽やかな甘みで飲みやすい。併せて木イチゴの一種のブラックベリーも栽培、実を丁寧に裏ごしして種を除き、ジャムペーストにしていた。アイスクリームやヨーグルトにぴったし。いずれも男の趣味の域を超えている。
 地域の豊かな自然の恵みの「木の実・ベリー」への男の挑戦は頼もしい。広げて活用の研究と6次産業化を期待する。(八) 


 

「目玉おやじ」との自撮り写真

(12月2日)

 人様に見せるものではないのでプリントせず、コンパクトカメラにデータ保存している写真を、パソコン画面に出して見た。
 漫画「ゲゲゲの鬼太郎」の「目玉おやじ」の小さなブロンズ像を見ている自分を、腕をぐっと伸ばして自分で撮った「自撮り写真」。一昨年春、積み立て旅行で山陰地方を訪れ、視察先の一つの鳥取県境港市で写した。鬼太郎を生んだ水木しげるさんが30日亡くなって、思い出したのだ。
 水木さんの功績や人となりは、新聞、テレビで詳しく報じられており、漫画と夫婦を描いたテレビドラマでしか知らない者が訳知りに解説はしないが、境港を訪問したのは水木さんの出身地であり、妖怪の像を設置した商店街の「水木しげるロード」が大勢の見物客でにぎわい、地域おこしの成功例となったからである。
 観光協会の職員から「漫画による町おこし」の具体的な取り組みと、さらに松葉と紅ズワイの漁獲で知られる「カニの町」が水産基地であると同時に環日本海交流の拠点貿易港を目指していることを教えられた。
 印象に残ったのは地域の人々が水木さんに敬意を払い、妖怪一つひとつから物語を知り、愛おしく思ったり、反面教師にしたりしていることだった。
 ブロンズ像は150以上もあった。その中で「目玉おやじ」を撮ったのは、少年時代に読んだ漫画、子どもと一緒に見たアニメから忘れられない存在になったためだ。人情家で悲しいときは目玉全体から大粒の涙を流し、鬼太郎の窮地をいつも救ってくれる優しい父。おやじとはそうありたいという気持ちがあったのかもしれない。
 小金が好きな「ねずみ男」。目先の金儲(もう)けのためなら仲間を平気で裏切るのは困ったもの。話術巧み、能代弁では「口あんべいい」で、怠け者、秋田弁では「からぽやみ」「ひやみこぎ」はどこにもいそうで憎めない。そして、「ぬりかべ」「ぬらりひょん」「一反木綿」などが次々と浮かぶ。
 さて、わが地方にはどんな妖怪話があるだろうか。八郎潟誕生の「八郎太郎」と、囲炉裏(いろり)から出てくる「灰汁坊主(あぐぼんじ)」ぐらいしか思いつかないのだが。(八)