桧山茶で広げたい「おもてなし」

(6月30日)

 いつもは半袖姿の季節なのに、遅い梅雨入りをした途端に急に寒くなり、しかも風を伴うのだから、上着を着てもみなブルブルして墓前に手を合わせた。暑い首都圏からやってきた人は「さびにゃ〜」と腕をさすっていた。
 こんな時に、体を温めるのはお茶、それも緑茶である。法事の後引きで、さして高級な煎茶とは思えないが、差し出されて一口含むと、ふぁ〜と熱さが広がり、ほっとした。
 季節外れの冷え込みに皆が大慌て。「石油ストーブをこの時期に使うなんて」「毛布をもう一枚出してきて寝た」などの声も聞く。それと同じようなことをして迎えた朝に、濃い煎茶を飲んで、心も体もあったかくなり、「今週も頑張るか」の気分となった。
 このお茶は、静岡県牧之原産の深蒸し茶。文字通りの深い緑に元気をくれる成分が抽出されている感じだ。
 このごろお茶といえばペットボトル。冷蔵庫にでんと置かれている家庭も多い。それで、急須でお茶を入れる経験のない若者が増えていて、日本のお茶文化の今後を憂う声も出ているほどだ。
 ここ10年ぐらいは、会議に出るお茶のほとんどはペットボトル。製品開発競争も激しく、それなりに飲めるし、好む人もいるだろう。しかし、ただ置いているだけ。しかも、寒い日に冷えていて、暑い日にぬるかったり。出席者に一時でもくつろいでもらうという心が伝わってこない。
 もちろん事務局の職員、とくに女性の手を煩わせることになり、今の時代はそうしたことに配慮せずとも、簡単便利な方法にしたほうが迅速・合理的ではある。けれども、何の集まりでもペットボトルでは味気ない。
 深蒸し茶を買い求めたのは、静岡は島田市の「お茶の郷博物館」を見学て。国内外のお茶や茶器などの展示、日本はもとより世界中のお茶を学べたが、その中に「北限の茶畑」として能代市桧山を紹介していた。
 その桧山で、製茶業復活に若手が参入したり、茶摘みや手もみを体験できるフェスティバルが開かれたりと、さまざまな動きが出てきた。
 桧山茶で温かく「お・も・て・な・し」を広げたい。(八)


 

コンパニオンをめぐる質問に

(6月25日)

 式典に表彰式、講演、座談会と日程を終えて、ホテルの宴会場でのレセプションへ。入り口で白のブラウスに赤のロングドレスの女性たちが「いらっしゃませ」と笑顔であいさつ、シャンパンを渡してくれた。
 500人がごった返す立食パーティーで、彼女たちは各テーブルに1人ずつ。かいがいしく働き、ビールや地酒、焼酎の水割りなどを注文に応じて、料理は頼んでもいないのにてきぱき運んでくる。
 「どちらからお見えですか」と丁寧な言葉遣いで質問され、「秋田県能代市」と答えると、「男鹿に旅行しましたが、能代はありません」。そうして秋田や能代の印象をめぐり会話が弾み、こちらは開催地の県と市の景気や美味しいグルメなどを逆質問する。
 以上は、毎年秋に開かれる日本新聞協会の新聞大会のいつかの一コマ。全国各地から集まり、お偉方に長老も多いので、花を添えるコンパニオンは欠かせない存在。接客料金は高々の参加費の中に含まれている。

 そのコンパニオンについて質問された。ある女性からは「宴会に必要なのかしら」と。山本郡内の議員からは「呼べばだめなのか」と。
 男主体の酒席で、接待する人がいないと、「無礼講」とされながらも肩書き・重い職責のある人は、部下や年の若い者、事務局職員が当然注いで回るものと思うもの。そしてごますりも出てくる。座は案外盛り上がらない。さらに配下の女性に強要すればセクハラ・パワハラである。
 そこで、コンパニオンの役割が出てくるが、秋田の場合、その接客代金を自腹で払わない団体があった。市議会議長会に町村会、町村議長会。加盟各自治体が負担する運営費からコンパニオン代を支出していたことが指摘され、参加者があわてて返還したのだ。
 長年の慣行。公私の区別と税金の使い方に厳しい目を向けられ、正さなければならないのにできない感覚が疑われる。
 それで質問者への返答。「公の懇談会なら予算、歓迎・招待の仕方によって、コンパニオンがいる・いらないが出てこよう。が、堂々とできず後ろめたさを覚える宴会ならやめるべき」と。   (八)


 

「オメだべしゃ!」と言われても

(6月20日)

 奥さんが能代出身の耕治人さんの夫婦をモデルにした私小説に「そうかもしれない」があることを4月の小欄で触れた。それを読み、さらに先月のBSプレミアムで放送され録画した同名の映画を見て「老い」や「惚け」を考えさせられた。
 認知症となって特別養護老人ホームで暮らす妻がヘルパーに付き添われて、病院でがん治療をしている夫を訪ねる場面。「ご主人ですよ」と促されても、黙っている妻。返す言葉もなく見詰める夫。何度かの呼び掛けで、妻がようやく話した言葉が「そうかもしれない」。けれど、妻も夫も互いを尊敬する念は失わず、一緒になった50年を慈しむかのような表情を見せる──。
 老いれば物を忘れ、惚ければ人の名は消えていく。
 老父の病院、介護老人保健施設の繰り返しの面倒を見た人は、やり切れなさを覚えた。脳の萎縮を医師から伝えられ、認知症の進行を理解していたが、息子であることが分からなってきたらしく、「オメ(お前)だんだ(誰だ)」と言われるようになった。逆に息子が「誰だか分かるか」と自分に指を当てると、返ってくるのは「だんだ、ったがなぁ」。
 だが、正月や旧盆にしか帰省しない別の息子や娘が見舞いに行けば、その名前をはっきり覚えている。度々様子をうかがいに行く自分を忘れても。そこが切ないが、父は世話をかける息子を申し訳なく思い、感謝したいのだけれど言葉が見つからず、「名前を忘れる」ことにしたのかもしれない。父の死去後しばらくして、彼はそう胸に畳むことにしたそうだ。
 知人は、長患いしていた父が自宅近くの特養ホームに入所したので、しばしば面会に行く。しかし、自分が息子であることを知っているのか疑問に感ずるという。
 それで思い切って聞いた。「俺は誰だ」と。すると、父は力を込めて言った。「オメだべしゃ!」。
 「確かに、親父にしてみれば、俺はオメだよなあ」と彼はあきれるような顔を見せたが、微笑ましい親子の情が伝わってきた。
 「そうかもしれない」「だんだが」「オメだべしゃ」と言われてもいい。明日は老いた父に声を掛けよう。(八)


 

「あってはならぬ」現実
福島第一原発を視察して㊦

(6月16日)

 東京電力福島第一原子力発電所(1F)は1~4号機が東日本大震災と津波で全電源を喪失、冷却機能を失い、原子炉内の核燃料が過熱融解した炉心溶融、もしくは建屋が大きく損壊する水素爆発、あるいはその二つを同時に引き起こした。
 各号機は冷温停止状態で、間近に見た4号機は使用済み核燃料の取り出しを終えているが、遠くに確認した1~3号機はこれから。放射線量が想定通り下がらないなどで遅れる見通し。それが終わった後、融け落ちて固まった燃料デブリの収納作業に移る。10年以内としているが、未知の領域で不透明らしい。1Fが廃炉になるまでには40年かかると説明されたが、生きてはいないだろう遠い先は想像さえつかない。
 構内に9階建ての大型休憩施設が完成、5月末から運用が開始されていた。約1200人が利用できる食堂などがあるという。東電の新事務所棟も完成、拠点分散が解消されていた。汚染水処理対策などの工事が盛ん。作業員の数は東電、協力企業合わせて7000人近くに上る。外に出れば完全防護しなければならない過酷な事故現場にこれほどの人がいるとは。
 広野町から1Fまで20㌔のバスでの往復の光景には複雑な思いをさせられた。
 避難指示解除準備区域の葉(ならは)町では、避難住民の試験宿泊が始まっており、住宅の新築や道路の整備など復旧復興工事が進み、役場や商店街に人の姿が見えた。富岡町では、至る所で枝葉の除去や表土の削り取りなど放射能物質を生活圏から削り取る除染作業が集中的に行われていた。
 しかし、1Fのある大熊町は帰還困難地域。住宅、事業所の前にはバリケードが張られ、衣料品店やホームセンターなどは壊れたまま、商品が放置されていた。田んぼは秋田の耕作放棄地でも見られないほどの草ぼうぼう。人が消えた街の不気味さが迫ってきた。
 震災前に5500人だった広野町には今5000人が住む。一方、富岡町、大熊町では「ふるさとに戻りたい」住民は1割強にとどまっているという。多くの人々の故郷を失わせているのだ。
 東電は1~4号機の廃炉費用を約9760億円と見積もっている。個人・法人などにこれまで払った損害賠償は4兆8000億円余に上る。
 目の当たりにした原発事故現場と対策に当たる人々、地域の現状、さまざまなデータを重ね合わせて、「あってはならぬ」を痛感した。
 原発については「反対=即廃止」や「安全性確認のうえの再稼働」という二項対立に思想や経済が絡み、さまざまな意見があるが、1Fの現実からして減らしていく脱原発の流れになるのは確かだ。
 その中にあって、東北電力能代火力発電所の3号機増設が来年から始まり、風力・太陽光も含めた「エネルギーのまち」に歩みを進める我が地域の意義・役割を改めて考えたい。(八)


 

過酷事故処理進むが…
福島第一原発を視察して㊥

(6月14日)

 日本最大のサッカートレーニングセンター「Jヴィレッジ」は、福島県沿岸部の双葉郡広野町と葉町にまたがる。東京電力が130億円で建設、同県に寄贈した原発マネーのこの施設は、今は福島第一原子力発電所(1F(いちえふ)=第一福島)の事故の対応拠点となった。
 広い敷地には所狭しと駐車車両やさまざまな資材。20㌔北にある1Fに行くには、ここで人も物も乗り換えなければならないのだ。センターハウスで、本人であるかを確認され、概要説明を受けた後、カメラや携帯電話などを置いて、バスで現地に向かった。長袖長ズボン姿で。
 この段階で放射線防護のマスクなどをするものだと思っていたが、それはなし。40分ほどで大熊町の1Fに到着した。
 原子炉建屋から直線1㌔の正面玄関近くでバスを降りると、作業員らが送迎用バスやワゴン車に入ったり出たり。ほとんどがマスクをしておらず、果たしてここは原発事故のあった場所なのかと思った。防除が進み、線量が極めて低くなったのだろう。
 ER(救急救命室)を併設した入退域管理施設で空港の保安検査場以上のチェックを受けて、見学者用着替え室へ。若い女性従業員から医療用マスク、綿手袋、ビニールの足カバー、それに積算線量計とIDカードを渡され、それらを装備してバスに乗り込んだ。外に出ることのない車内からの視察のため防護服はなし。
 海抜35㍍の高台。ここに原発が建っていれば津波は届かず、全電源が喪失して冷却できず水素爆発して建屋が大破することも、メルトダウンという炉心が溶融して燃料が落下することも、放射能がまき散らされることもなかっただろうに。バスは海側に下っていく。
 問題が指摘されている増え続ける汚染水。それを溜め込むタンクが見渡す限りに広がる。その数1000基。工場のような建物は汚染水の放射能を除去する高性能の多核種除去設備だという。
 1~4号機の外観を確認した後、使用済み核燃料をすべて取り出し移送した4号機建屋のほぼ真下に。燃料取り出し用に設置された構造物の骨組みの巨大さに驚いた。周辺のがれきはほとんど撤去され、防護服に全面マスクをした作業員が、除染や汚染水が流れないように「氷の壁」で囲う凍土遮水壁の建設工事を進めていた。
 放射線量の高い1~3号機には近づけず、海側に回ると押し流された重油タンク、崩壊した港湾施設など、放置のまま。
 50分の短い視察。再び入退域管理施設で全身に汚染がないことを自動測定機で確認して、構外に出た。
 東電も作業員も、放射能の影響に細心を払いながら過酷事故処理に当たり、前に進んでいることは理解したが、1Fが無くなる廃炉まで40年、「核のゴミ」の最終処分場にめどがついていないとなれば、暗然とする。(八)
 


 

語る基礎知識はあるのか
福島第一原発を視察して㊤

(6月13日)

 『「フクシマ論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』などを著した気鋭の社会学者の開沼博福島大学特認研究員の講演で、逆に福島をめぐる人口、産業、食などのデータを15も質問された。
 「震災前に福島県で暮らしていた人のうち、どのくらいの割合の人がいま現在県外に避難して暮らしているか?」。渡された用紙に「5%」と書いた。答えは2・5%、200万人中の約4万5000人。これまでの回答の平均は20%だそうで相当の差がある。
 「福島県では年間1000万袋ほど作られる県内産米の放射線について全量全袋検査を行っている。放射線量の法定基準値(1㌕当たり100ベクレル)を超える袋はどれくらい?」。これは聞いたことあり、「0%」と正解を答えた。2012年71袋、一昨年28袋が昨年はゼロに。
 「福島県の2013年の観光客は2010年に比べてどれくらい回復している?」。「60%」と回答したが、実際は84・5%。ただし修学旅行は47%で、外国人も激減したままだという。
 「3・11の福島では①中絶や流産は増えた②離婚率が上がった③合計特殊出生率が下がった─のうちいくつが正しい?」。二つとしたが、出生率、中絶流産は震災前と差はなく、離婚率は低下で、三つとも正しくはなかった。
 「福島県の震災関連死は何人ぐらい?」。地震・津波による直接的なものではなく、避難生活での体調悪化、過労・心労で間接的に亡くなる人が増えていることは理解しており、1000人ぐらいかと思ったが、実際は1800人弱で、県別で福島が最も多いとの説明であった。
 東日本大震災と原発事故から4年3カ月。どのように復興してきたのか、変化しているのか、秋田県人、専門外であるにしても「福島の基礎知識」は案外ないものだと気付かされた。そして、つきまとう「避難、賠償、原発、放射能、除染、子どもたち」に先入観や固定観念、思い込みがあることを自省した。
 現実を見据えなければならないのだ、と。翌日に控えた東京電力福島第一原子力発電所の視察に緊張した。
              ◇  ◇  ◇
 マスコミ倫理懇談会全国協議会が福島市で「メディアと法」研究会を開き、その日程の6月5日に福島第一原発の視察を組み込んでいることを知り参加した。目の当たりにしたことを伝える。(八)
 


 

遅ればせながら「おにぎらず」

(6月9日)

 遅ればせながら、ついに「おにぎらず」を作った。
 平皿の上に葬儀のお返しの四角い大判の板海苔(のり)を置き、その上に炊き立てのホカホカのあきたこまちを延ばすように敷き、具材を載せて、海苔を折って包んだ。
 海苔の一部が切れてしまったが、何とかごまかして四方形の、握らないで作れるおにぎりの一種の「おにぎらず」が二つ出来上がった。丸も三角も普通のおにぎりは、男手では上手(うま)くいかず不格好になるのに。
 具材は一つがほぐしたコンビーフに薄く切ったタマネギ、薄焼き卵。頬張ると、コンビーフの塩味と脂が熱いご飯に染み込んでいて、「いいじゃん」と勝手に自慢した。もう一つは食べ残した昨晩の鶏肉の香味炒めにサラダ菜、スライスチーズ。こちらは、チーズがいい塩梅(あんばい)にとろけていて、それなりに「いける味」であった。われながら満足。
 作り立てなので、海苔はパリパリ。ラップに包んでしばらくしてから食べれば、しっとりするだろう。それもいいかも。
 「おにぎらず」は、今は読まなくなったが、男性マンガ雑誌「モーニング」に20年以上連載されている「クッキングパパ」(うえやまとち作)に登場した。それが、インターネットの料理レシピサイトに取り上げられ、簡単で楽しいとして昨年秋から人気が出たそう。
 先月、早起き出発の旅があり、朝食はコンビニのおにぎりかサンドイッチにしようとしたが、店に「サンドおむすび」なる商品があった。ハムカツとソース味の焼きそばに紅ショウガと辛子(からし)マヨネーズを組み合わせ、それをご飯で挟んだ「おにぎらず」で、興味を覚えて1個210円を求めた。
 混然一体、実に複雑な味であったが、今や料理は何でもありの時代、ハムカツファンもいるだろうから、「それもあり」と思った。
 そして、若い人が母親から「おにぎらず」を作ってもらって喜々としていたという話を聞いて、「おにぎらず」ブームを実感、ならば自分もと念願を果たしたのである。
 米の産地秋田も農家も消費低迷と価格安にあえいでいる。邪道というなかれ。「おにぎらず」でも米をもっと食べようよ。(八)
 


 

〝あがめろ〟にならぬように

(6月4日)

 ツツジを愛(め)でながらの歓談で、宴(うたげ)の主のように座っていた知人の右目尻が赤くなっていて短い傷があった。
 「どうしたのか」と誰かが問いただすと、頭をかきなながら「酔って転んだ」と話し、「だいぶ治った。前はもっとひでがった」と酷(ひど)い状態だったことを明かした。「あがめろ」という方言を付け加えて。
 酒をこよなく愛す人も年を重ねれば酔い回りが早くなり、飲み屋をはしごする姿は千鳥のよう、帰路に就く足運びも危なっかしい。道路の縁石につまずいたか、濡れた路面に足を滑らせたかだろう。
 たまに、自転車に乗って夜の街に繰り出してくるから、帰宅に酔っぱらい運転してふらつき、挙げ句、前のめりで転倒したのかもしれない。仲間は「大変だったなぁ」と同情の声を掛けたが、内心は「いつかはそうなったはず」「しょうがない」などと〝自業自得”と思ったよう。
 すると、別の人が「私もこの前、道路で転んだの。ひどかったのよ。あがめろ、だったものぉ〜」と額の付近を指した。壁を塗っていたのか、ほとんど分からなかったが。
 それにしても、中高年に転ぶ人が何と多いことよ。そして擦(す)り剝(む)いて「あがめろ」になり、自分を呆(あき)れることも。
 「あがめろ」は、県教委の「秋田のことば」によれば、「皮膚がただれている様子」で、「『あが』は皮膚が赤いことをいい、『めろ』は皮膚が爛(ただ)れたり、剥けたりしているさまをいう」と説明。つまり「赤ただれ」「赤むくれ」のことである。
 その方言を久しぶりに聞いて、遠い昔の子どもたちはあちこち遊び回ってケガをし、皮膚が剥けるのはしょっちゅうで、「あがめろ」は元気な少年の勲章でもあったことを思い出した。そして、治りかけの瘡蓋(かさぶた)を剥(は)いで、また「あがめろ」になったことなどを隣の人と語り合い笑った。
 ところで、飯田川町(現潟上市)の方言集では、「あがめろ」は「あがむぐれ」のほかに、「すってんてん」の意味があると紹介。「川反(秋田市)に飲みにいって、よぐよぐあがめろになった」の用例を示している。
 転んで「あがめろ」も、懐が寂しいすってんてんの「あがめろ」も避けたい。(八)