ダダミなくてもタラ子醤油漬け

(1月29日)

 寒中の新年会となれば、体をポカポカにする鍋を囲むのが北国の定番。それも真鱈(まだら)が一番と思うが、八森沖は時化(しけ)が続いて出漁できない日が多く、また漁があったとしても不振という。
 それでも八峰町の人が何とか1匹手に入れて、塩味の鍋に。カマや頭などのザッパをしゃぶり、ガムのような胃袋や濃厚な肝を味わい、一煮立ちした地場のネギを頬張ると何とも言えぬ旨(うま)さが口いっぱいに広がり、「んめ」と発した。中山間地から駆け付けた仲間たちも「いいじゃぁ~」と、寒鱈にありつけたことを喜んだ。
 材料の皿に何やら濃茶色が盛られていた。三陸のワカメと八森の磯で採れた岩ノリ。それを鍋の中でシャブシャブ風に揺らすと、瞬時に鮮やかな緑に。その色の変化は、余計に美味(おい)しさを運んできて、厚いワカメと薄い岩ノリの食感の違いを感じながら、悦に入った。
 だが、何かが足りない。真っ白が見当たらない。いつもはあるダダミ(白子)。雄が上がらなかったらしく、雌が用意されたのだった。クリーミーなダダミをハフハフしながら食べたかったと残念がっていたところ、タッパーに鱈の子(卵)の醤油(しょうゆ)漬けがびっしり。小皿に取ってみると小さな粒つぶが輝き、口に入れるとねっとりとして深みのある味だった。
 彼はダダミはなくとも、鱈を堪能してもらいたいと、自ら腕を振るって調理したようだ。「どんだ、俺の味」と聞いてきたので、「いける」と答えた。皆の酒が進んだのは言うまでもない。
 真鱈の子は、ニンジンやゴボウ、シラタキこんにゃくなどとともに出汁(だし)、醤油、砂糖、みりんを入れて炒(い)った「炒り煮」として冬の家庭料理に出てくるし、スーパーや総菜店でも販売されているが、「醤油煮」には案外に出合わない。我が家も実家も「炒り煮」派で、「醤油煮」派は亡くなったスナックのマスターや、漁業従事者などに限られていた。
 別の知人も醤油煮を作っていた。こちらは昆布入り。熱々のご飯に乗せると、まさにお供となった。
 八森の真鱈の復活を願う。ダダミも「子っこ」もすべて堪能したい。(八)

 


 

 

「ひげじょろ」ではと読者から

(1月24日)

 10日の小欄に、北海道南部との人の交流で能代山本にも「シゲジロウ話」が分布していたことを紹介した。
 シゲジロウは繁次郎、茂二郎、重次郎などと記され、機知に富んだ笑い話を誘う民話の主人公だが、やがて「シゲジロウみたいだ」は「嘘(うそ)をつく人、大げさな人、途方もないことをする人」を指すイメージが伝え残っているとする研究も示した。
 その「シゲ」が付く名前の人と出会うと、「何だか俺のことを言われているような気がした」とぼやかれた。決してそういう人物ではなく、好漢なのだが。
 80代の読者から、シゲジロウ話について小欄に手紙が届いた。
 ◇  ◇  ◇
 子どもの頃、祖父から似たような言葉「ヒゲジョロ」を聞いているので参考までにお知らせします。
 誰かが、何かについて話していると、すぐに割り込んで、同じ話を自分の知っていることとしてしゃべる人がいると、「あいづはヒゲジョロだ」というのだそうです。
 昔は年末年始になると、門付(かどづけ)で二人組の万歳が家々に回ってきて、新年の繁栄を祝って、太夫(たゆう)が節をつけてめでたい詞を連ねると、一節ごとに才蔵が同じ言葉を繰り返すのです。
 また今の漫才のボケとツッコミのように、才蔵が身振り手振りを交えてダジャレやとんでもない話をして、太夫がたしなめるコッケイな掛け合いをする演目も多いようです。
 以前に何かの本で万歳に関した「せき候」という言葉があったことを思い出して、まず「読む方言辞典」(工藤泰二著)を開いてみたら、「ひげじょろ」は「せきぞろ」(節季候=せっきにそうろう=)のことで、「うるさく喋(しゃべ)りまくる人」を言うとありました。
 ◇  ◇  ◇
 そして、「シゲジロウ」も、もとは門付万歳のひとつの「せきぞろ」が転化した言葉であるものと思われる、と結んでいる。なるほどとも思う。
 冨波良一さんの「再録能代弁」では「ひげじょろ」は①あることないこと、いいかげんにふれ歩く者②三百代言③バカ者の称──と。
 会話へ割り込み知ったかぶり、あることないことのふれ歩き。いるよなあ、わが地域に「ひげじょろ」。 (八) 


 

飲食店ビルの解体を目にして

(1月20日)

 街は生き物であると思う。人が暮らし、人が行き来して息遣いが聞こえてくるからという見方ではなく、街そのものが少しずつ姿を変えて、いつの間にか全く別な様相を帯びるという成長や隆盛や衰退があるからである。
 「なんだか寂しいなぁ」と後輩が話しかけてきた。能代駅前と中和通りで飲食店の入っていたビルの解体が始まったことを指す。若かりし頃、そのビルに行ったことがあり、思い出があるからのようで、そこからかつて丸〆デパート(畠町通り)、みつまるデパート(駅前)などをはじめ商店街がにぎわいをみせていたことを回顧していた。
 車社会に応じて能代もまた国道7号沿いをはじめとした郊外に大型店・スーパー、薬や衣料の専門店などが張り付いた。それにより、中心商店街は厳しい道を歩まざるを得ず、また店主の高齢化、後継者難など閉店・廃業が相次ぎ、櫛(くし)の歯が抜けていくようになり、シャッター通りと化した。
 10年、20年、30年と経て、そうした状態を憂いはすれど、驚くこともなくなったが、ビルの解体を現実に見せつけられると、後輩のように寂寥(せきりょう)感を抱かざるを得ない。
 鉄道やバスの時代。能代駅前はロータリーの周りと富町通り、畠町に小売店や飲食店、パチンコ店などがびっしり張り付いていた。平和通りという不思議な空間の小路も。商店街の盆踊りなどイベントも毎年のように行われた。戦後は昭和20年~50年代まで能代にぎわいの場で、最高路線価や地価最高基準値の地点であった。
 中和通りは、昭和52年を境に急速に発展した。この年の3月に地元衣料品2店が新会社に30近いテナントを引っさげた能代市初の総合大型店アイケーがオープンしたためで、周辺にビルが相次いで林立、通行量調査で高位となった。しかし、アイケーはサンホーユー、ニチイ、サティと名を変え、平成14年に四半世紀・25年の歴史を終えた。
 個々の商店はなお頑張っているけれど、中小ビルの老朽化が目立つ。所有者に解体できる力があればいいが、放置されたまま、しかも崩れてきて危険と思われる空きビルも。対策が急がれる。 (八)


 

 

県内選挙は風雲急でにぎやか?

(1月13日)

 「風雲急と言いますか、にぎやかになってきたスナ」と佐竹敬久知事(69)が11日、語っていた。
 自身は4月の知事選に3選を目指して立候補することを12月の県議会で表明している。ただ、今のところ佐竹氏以外に名乗り出ている人はおらず、無風状態。民進党と共産党が独自候補の擁立を模索しており、いずれ選挙戦となる公算が大きいが、強力な対抗馬は果たしているのか。
 佐竹氏は能代商工会議所の賀詞交換会に出席するなど県内各地に顔見せを兼ねた新年あいさつに回っており、また健康状態がすこぶる良いと会う人会う人に強調、余裕すら感じられる。
 それなのに「風雲急」という言葉を使って事態が変わってきたとの見方をするのはなぜか。
 この日、知事選と同時に行われる秋田市長選に県議の丸の内くるみ氏(72)が立候補を表明。出馬を明らかにしたのは3選を目指す現職の穂積志氏(59)に続き2人目で、県都の無競争は消え、選挙戦突入が確定したことを指したのだ。
 県内では今年知事と14市町長の改選期。2月の五城目町長選を皮切りに、4月は知事のほか、秋田、男鹿、北秋田、潟上、由利本荘、大仙、湯沢の7市と小坂、羽後の2町の首長選挙がある。
 現職先行の無風、無競争の観測が流れていたが、男鹿や湯沢のように立候補が確実とみられていた現職が引退を表明したり、年明けになって議員や会社経営者が出馬の意思を明らかにして選挙戦が確実となった市町、一騎打ちから三つ巴(どもえ)の様相となった湯沢市などと動きが慌ただしくなっている。
 それを、知事は「にぎやかに」と表現したのだろう。後援会など自身の周辺も選挙に向けて忙しくなってきたことにも重ねたのかもしれない。
 知事選、秋田市長選、それに能代山本を取り囲む北秋田に五城目、男鹿の首長選に関心が及ぶ。と同時に、正月早々、次の年のことを切り出しては笑われるだろうが、来年の今頃は能代市、三種町、八峰町は選挙の話題で持ちきりだろうと想像した。首長選、議員選が迫っているからだ。
 準備・決断へあと1年は短い。   (八)


 

伝え残るシゲジロウのイメージ

(1月10日)

 酔いにまかせて同席の友人の失敗談を身振り手振りを交えて面白可笑(おか)しく語る人に対し、語られた本人がこう叫んだ。「おめだば、シゲジロウだおな」。
 周りは一瞬、キョトン。彼は「シゲジロウ」ではない。なぜその名前を出して非難めいた言い方をするのだろう。そこで「シゲジロウってどういうことか」と聞くと、「いいかげん」と返した。「知らないの?」といった表情をしながら。
 シゲジロウ─いつかどこかでその言葉に触れた気がして書棚をしてみると、秋田大学教育文化学部の学生参加型の地域調査実習の記録集「秋田学資料集1能代・山本の生活文化とことば」(2009年12月発行)にあった。
 当時の学生・遠藤愛梨さんが「秋田県北部に残るシゲジロウの記憶」をテーマに調べていた。北海道の道南地方では有名なニシン場を舞台にした「江差のシゲジロウ」の民話が、秋田、青森、岩手の沿岸部、特に海辺の漁村に分布、ニシンが豊漁だった頃の出稼ぎ者が地元に伝え、秋田県北部にも記憶として残ると考察した。
 そして、北海道の民話の「一番ドリコ」を紹介。繁次郎は漁場に雇われる時に「オラは親代々働き者で朝は一番ドリコ(ニワトリ)と一緒に起きるし、海サいけばトド(海獣)で稼げば煙の如(ごと)くだ」とあいさつ。しかし、即興の民謡はうまいが、仕事は零点、親方よりも朝寝坊で、問いただせば言い訳ばかり…。
 似た話が秋田では「茂二郎とんち話」にも収録、話者は八森町と男鹿市とある。「能代市史特別編・民俗」には「シゲジロウ話・釜木伐り」も。
 遠藤さんのフィールドワーク、10人の聞き取りでは、シゲジロウ話を直接聞いたことのある人はいなかったが、「嘘をつく人、大げさな人のこと『シゲジロウみたいだ』という」(旧峰浜村)、「途方もないことをする人を『シゲジロウみたいだ』という」(旧八森町出身)などの回答があり、人物のイメージは残って伝わっているとまとめている。
 年明けに意外な表現と出合い、今年も地域に残る方言や言い回しを残したいと思った。けっして、大げさなシゲジロウにはならぬようにして。(八)


 

紅白の東京五輪音頭で思い出す

(1月5日)

 年末恒例のNHK紅白歌合戦。52年前の小学生時代の記憶がよみがえった。
 岩手県出身の福田こうへいの歌は「南部蝉(せみ)しぐれ」ではなく、〽アーあの日ローマでながめた月が今日は都の空照らす…オリンピックの顔と顔ソレトトントトトント顔と顔─と続く「東京五輪音頭」。若い女性・男性グループが後ろでにぎやかにしていた。
 東京五輪音頭は作詞・宮田隆、作曲・古賀政男で1963年(昭和38)に楽曲が発表され、三橋美智也らと競作となったが、明るい歌声の三波春夫が一番ヒットした。
 歌の力はすごいもので「ハアー」と始まると、「あの日ローマで」の歌詞が瞬時に浮かび、手で丸を作ったり、トトントでは手拍子をする踊りまで体がまだ覚えていた。
 1964年のオリンピックの年、日本中が五輪ムードに沸いていた。東京五輪音頭の踊りは大人はもちろん、小学生も覚えるように指導され、その年の運動会で踊りの輪を広げたと記憶する。
 体操の小野喬さんは能代市出身。1952年のヘルシンキ、52年のメルボルン、60年のローマの3大会で個人総合と種目別で金・銀3個ずつに銅4個。団体でもローマで金。体操日本の大黒柱で、「体操能代」を全国に知らしめていた。子ども心に誇りと憧れを抱き、東京五輪でも活躍すると信じ、踊りを通じてオリンピックのワクワク感が昂(こう)じていたと今にして思う。
 富町の市民体育館前だったか市役所前だったか、聖火リレーの引き継ぎが行われ、それを近所の子どもたちと見て、興奮したものだった。
 しかし、五輪音頭が紅白歌合戦でカバー曲として歌われても、懐かしさは込み上げてきたが、3年後に寄せる高揚感はちっとも出てこなかった。
 夢が描けた子どもの頃と、物事に熱中せず、斜に構えてしまう中高年となった違いだろうか。ごたごた続きに呆(あき)れて、期待が冷めてしまったためか。いや、東京の集中と発展の一方で地方がますます疲弊している現実に、浮かれ気分になれずにいるからかもしれない。
 五輪音頭のような歌が生まれ、地方も盛り上がるのか。(八)