「こべはえ」と呼ばれた人

(4月30日)

 「お前(め)だば、こべはえ、なぁ」と向かい合わせの知人が、隣の席の同期生の説明に驚き、茶化していた。
 廃校となった小学校体育館で行われた先日の講演会。テレビでおなじみの女性ジャーナリストが講師で、朝鮮半島有事という時節柄か、主催者の予想を大幅に上回る約800人が訪れた。
 用意したパイプ椅子に着席できた人はよしとしても、体育座り、もしくは立ち見で1時間半を聴講するのは中高年には辛(つら)いもの。「こべはえ」と言われた人は、体育館の奥に仕舞われていた踏み台を二つ見つけ、ひとつには自分が座り、もうひとつは腰の具合が悪そうな人に勧めたという。目線が高くなり、講師の姿をはっきりとらえることができたと話していた。
 「機転が利く」を言い表す「こべはえ」は案外に聞く方言だが、どうしてそう言うかは特に意識していなかった。「うしろこんべ」つまり「後頭」と話すように、「こんべ」は「頭(こうべ)を垂れる」の「頭」のことで、「はえ」は「早い」を指し、「頭が早い」ことは、物事に対処するための頭の回りが早いことと理解していたからだ。 
 しかし、そんなに単純なものなのだろうかとの疑問が湧いて調べてみると、語源は意外であった。
 県教委編の「秋田のことば」によれば、「こんべぁはえぁ」は「気が利いて手早い。敏捷(びんしょう)だ」の意味で、「『勾配(こうばい)早い』に由来するという。急勾配の意味から、人が敏捷で抜け目ないことに転じ用いたものであろう」とある。用例として「こんべぁはえぁわらしっこだ」(敏捷な子だ)を紹介。
 工藤泰二著「読む方言辞典─能代山本編」では、「頭の巡りの早いところからかと思ったら、『勾配が早い』とは『判断が素早い』ことという用例が『西洋道中膝栗毛』にあった」と大辞林から参考を引いている。
 用例は二つ。「あれはコベはえして油断なんね」(あれはすばしっこいから油断がならぬ)と、「えっつねとてきたがコベハエあたおな」(とっくに取ってきたのか、気の利くやつだものな)。
 生き馬を抜く世界で経営してきて、引き際の判断も鮮やかだった人は、やはり「こべはえ」なのだ。  (八)                         


 

 

京都はイサザ、能代はシラヨ

(4月25日)

 一度は行ってみたい日本三景にして日本3大松原の「天橋立」のある京都府宮津市が、テレビの旅番組で紹介され、地場の美味しい料理のひとつとして「イサザの踊り食い」が出てきた。
 イサザ?一瞬、八郎湖で獲れるアミの一種でエビに似た体長3㍉ぐらいの「いさじゃ」のことかと思った。しかし、強烈な塩辛さと臭いの塩辛、それに甘じょっぱい佃煮は食べたことがあるが、踊り食いはない。そもそも生で食べるものだろうか、と疑問が湧いた。
 すると、能代地方ではシラヨと呼ぶ飴色(あめいろ)に透き通ったスズキ目ハゼ科のシロウオが4㌢ぐらい15匹ほど、小鉢の中を泳いでいる映像が流れてきた。
 酢、鰹出汁(かつおだし)、醤油(しょうゆ)、みりん、砂糖を調合した土佐酢に漬けて食べると説明。若い女性リポーターが口に入れ、「跳ねてる」「かじるんですか」とキャーキャー騒いでいた。
 シロウオは全国の河口で水がぬるむ頃に産卵のために川に上ってくる。それを四つ手網漁などで獲り、地元の人々が珍重する。喉越しを楽しむ踊り食いも各地で名物となっているようだが、所変わればで呼び方が異なるようで、京都や北陸地方では「イサザ」で、同じ秋田でも雄物川周辺は「シラヤ」、米代川周辺では「シラヨ」である。
 去年の今ごろの質問を思い出した。60代の知人が「シラヨとシラウオはどう違うのか」と。うろ覚えの知識をひけらかして間違っていてはいけないので、「そのうち調べておく」と返答した。
 杉山秀樹著の「あきたの地魚・旬の魚」によると、シラウオはキュウリウオ目シラウオ科、大きさは10㌢程度で旬は10月、八郎湖で年間15㌧ほど漁獲されるとある。シラヨとシラウオはどちらも小さいけれど、かなり違うと報告する。
 シラヨは京都では上品に土佐酢で食するが、能代は15匹程度ではなく、その倍以上にウズラの卵と醤油をかけて、あるいは山ワサビを煮出した汁と醤油をかけてズルッと口に入れて、ニョロニョロ、ピチピチを楽しんで、かじって飲み込む。豪快に。
 そのシラヨがようやく。先日とある店で供され大切に味わったが、1匹どこかに跳んで逃げていった。(八)

                        


 

ある運転免許証の返納

(4月22日)

 今月初めの昼、世話になった80代半ばの一人暮らし男性の家の前を通ると、愛用のワンボックスカーが見当たらなかった。数日後の夕方に幹線道路の側から、横道にある彼の家の方をのぞくとまた愛車が駐車されていなかった。
 里山集落に生まれ育った人だからいつものように山菜採りにでも出掛けたのだろうか、それとも都会に暮らす息子家族に遊びにでも行ったのだろうか。以前、心臓を患ったから入院でもしただろうか、だとしたら連絡がくるはずだが…、などと思いを巡らした。
 そうしてまた通ると、またもや車が留め置かれていない。何かしらあったのではないかと異変を感じて、思い切って玄関戸を引いて来訪を告げると、元気そうではないけれど返事があった。
 「車ないが、どうしたの?」と聞いたところ、3月末をもって運転免許を返納、車はいろいろ面倒を見てもらっている中古車販売店に渡したと説明した。
 狭い場所に器用に駐車してきており、慎重な安全運転で車をぶつけたりこすったりすることもないから、まだまだ運転できるはず。そもそも車がなければ、好きな山菜採りにも行けないだろうに。それでも決断したのは、1年と言われぬ加齢のためだった。
 足腰が弱って座ってから立ち上がるまで時間がかかるようになり、また物忘れの頻度が高くなったという。全国で高齢者の重大事故が相次いでいるとのニュースを知れば、自分にもその可能性はなくはない、万一事故でも起こしたら取り返しがつかない。そう思ったらしい。
 「車がなければ困りませんか」。市街地の空洞化と後継者難で近所には店がほとんどなくなったことを思い出して質問すると、自転車を購入したとのこと。「もっとも、年だから自転車に乗るもの大変だよ」と付け加えた。
 先日、仕事で出会った80代の自営業男性が、声を掛けてきた。「女房に免許を返納させました」。彼の妻が物損事故を起こしたことを知っていたので、その後を報告したのだ。
 能代山本では昨年、運転免許証返納は206人。増える実態を垣間見、高齢者の足の確保を案じた (八) 

                        


 

「あと1年、しっかりひよ」と

(4月16日)

 雌雄を決した県知事選と能代山本の県議補選のあれこれを論じていると、「あど1年がぁ」とつぶやく人がいた。
 来春の能代市と三種町と八峰町の首長と議員の選挙に、早くも思いが飛んでいた。そう言われて、3年前の記憶を呼び戻し、鬼に笑われても来年を想像した。
 首長選は能代市が現職の斉藤滋宣氏と29歳の新人の一騎打ちで、斉藤氏が圧勝で3選。八峰町は加藤和夫氏が無競争で3選、合併前の旧八森町を含めれば5選。三種町は三浦正隆氏が無競争で2選を果たした。全体的には無風といえた。
 議員選挙は、能代市が激戦で、定数22に30人が立候補、36歳1位、35歳3位、43歳4位、市議会史上最年少26歳8位などと若手新人が台頭、世代交代が一気に進んだ。
 八峰町は定数12に15人が立候補。最も若い候補が現職の56歳、平均年齢62歳余の「実年選挙」。旧峰浜村7人、旧八森町5人の当選で、落選はいずれも旧八森町だった。
 三種町は定数を2減らした18を争うことになったが、定数通りの立候補で新人4人を含む無競争当選。町長選とダブルで1日だけの選挙となり、町民も複雑な反応を見せていた。
 さて、来年。能代市長の斉藤氏は65歳、三種町長の三浦氏も65歳、八峰町長の加藤氏は75歳となっている。年齢や当選回数、支持体制などを踏まえ、どのような去就となるか注目されよう。再び無風や信任の選挙となるのか、果敢に挑む人が出るのか。
 議員選挙は能代市の場合、若手の台頭に刺激を受けて、さらに若い世代が挑戦、交代の波が続くのか、ベテラン勢がなお踏ん張るのか、引き際を考えるのか、焦点と思われる。
さらなる定数削減も論議されている三種町は、その動向と合わせて、連続の無競争の回避となるのか注目され、八峰町は若手が挑んで実年選挙から脱するのかに関心が及ぶ。
 首長も議員も3年はあっという間に過ぎたとの感があるかもしれない。しかし、住民にしてみれば、何をどうしてきたのかと思うこともある。冒頭の人は、なじみの議員に「しっかりひよ」と発破を掛けていた。(八) 

                        


 

県議から消えた「中田」「能登」

(4月11日)

 1967(昭和42)年から50年にわたって、能代市選出の県議会議員にどちらか欠くことのなかった名字「中田」と「能登」が消えた。時として流れを変えてきた能代の保守の歴史の新たな転換点となるのだろうか。
 戦後の復興と経済の成長とともに、能代市の政界はさまざまな若き人材を生んだ。
 代表的な企業の秋木の土木営繕関係者が創業した西村土建。後に社長となった能登直助氏は、昭和30年に能代市議選でトップ当選。戦後、満州(中国東北部)から引き揚げ中田建設を設立した中田初雄氏も政界進出。34年に市議選で4位当選。この時、能登氏5位。
 それまで2人とも無所属だったが、38年の市議選では中田氏は自民党公認となり5位当選。能登氏9位。
 42年には中田氏が県議選に挑戦、自民党公認で2位当選。一方、能登氏は市議選で4位。46年には中田氏が県議選でトップ当選、能登氏は市議選2位。能登氏は機は熟したとみて50年の県議選に向かい、無所属で2位当選。自民公認の中田氏はトップ。
 54年はともに自民公認となったが、社会党候補が割って入り、中田氏当選、能登氏落選と明暗を分けた。直後の市議選に能登氏の長男祐一氏が立候補してトップ当選、58年、62年と連続1位。中田氏は58年、62年と県議選当選を続けた。
 中田氏が亡くなった後の平成3年に祐一氏は県議選に自民党公認でトップ当選して連続3期。祐一氏が15年の市長選に立候補のため県議を辞すると、その年の県議選に初雄氏の二男潤氏が無所属で出馬して当選を果たす。能代市と山本郡が一つの選挙区となった19年から23年、27年は祐一氏と潤氏が立候補、19、23年はともに当選するが、自民公認の祐一氏が先行した。
 そして、27年は祐一氏当選、潤氏落選。祐一氏死去に伴う9日の補選では祐一氏の長女孝子氏が、潤氏の支援を得たとされる吉方清彦氏に敗れた。
 戦後から長くライバル関係にあり、能代市に県議を輩出してきた「中田」と「能登」の姓がなくなった。感慨を覚えるのは、小欄だけではないと思われる。
 2年後のその姓・陣営から候補者が出てくるのだろうか。 (八)

                        


 

「あんべいい」「んだんだ」批判

(4月10日)

 県知事選で当選した佐竹敬久氏は、あれこれ雑多な話を好き勝手にすることがある。
 去年の秋の講演会では、原発が争点となった鹿児島県と新潟県の知事選で、有力とみられた官僚出が敗れ、鹿児島はテレビのコメンテーター、新潟は弁護士にして医者が当選したことに触れ、こう言った。
 「選挙というものは、能力に加えてキャラも必要かなと思う。ましてや、これからは女性と若者が鍵ということですので。ただし、若者に迎合するという意味ではありませんが」
 「官僚はすごく優秀な人、話すことは立派で整然として隙がない。これでは面白くも何ともない。やはり選挙に選ばれる人は面白くないとだめですね」
 その時、こう感じた。自身は県庁で若きホープとして育てられ、抜擢(ばってき)されたが、国のキャリア官僚ではなく、秋田弁と訛(なま)りが抜けず、気さくに何でも話し冗談も飛ばすから、面白いタイプと思っているのだろう、と。
 「私は秋田の走り屋だと言っています。暴走族とは言いませんよ。私が走り屋のトップなんです」とも。
 佐竹藩の典医のゆかりから、八峰町で生産される薬草の場面もあるコマーシャルに殿様役で出演するなど、秋田の農産物を世界に全国に売り込むために表に積極的に出るのも、そんな気分なのかもしれない。
 しかし、佐竹氏が最も気にする人は、秋田県が発信するキャッチフレーズを使って厳しく批判する。先月31日に能代市ではこう叫んだ。
 「時代が変化する時、『あんべいいな』『んだんだ』ではやっていけない」
 今回敗れた寺田典城氏。この人も歯に衣(きぬ)着せず話すが、選挙前から佐竹氏への舌鋒(ぜっぽう)が鋭かった。自身が知事時代は、自民党をはじめ反対勢力の抵抗にあって議会で議案は否決されたりしたから、今の県政を「議論もろくにしないで物事を進め、議会となれ合っている」と見えるのだろう。
 実際に秋田を取り巻く状況は「あんべいい」ではなく、「あんべわり」があちこちに。「んだんだ」と物分かりよくする状態でもない。
 緊張感と危機感が秋田には求められる。もちろん面白いも必要であるが。(八)

                        


 

ピアフとホリディを教えてくれた人

(4月7日)

 エディット・ピアフは「愛の賛歌」で知られるフランスのシャンソン歌手。ビリー・ホリディはアメリカのジャズ歌手で「奇妙な果実」が代表曲。その2人の歌姫を知ったのは、大学の国語の授業であった。
 田舎出の18歳は進学したはいいが、授業がどういうものかさっぱりわからず、毎日右往左往していた。日本語の読み書きして理解する能力を養う国語は大切であっても、入った学部とやや距離があり、適当に学んで、「不可」にならなければいいと思っていた。学習内容も高校の延長で、著名な日本人の文筆家の作品を題材にするものと予想していた。
 最初か2回目の授業かで、当時40歳の若い教授は日本語とはほとんど関係のないシャンソンのピアフとジャズのホリディの話をしたのだ。どんな内容だったかは判然としないが、2人とも波乱の人生を歩み、その中で人々の心をとらえる歌を歌い、愛されていることを教えたように記憶する。
 ずいぶん毛色の変わった授業で、面白いと感じた。そのことを能代市出身で他大学の文学部に進学していた先輩に話すと、名の知れた詩人であると紹介された。ゼミを持っており、それも受講すればいいとアドバイスを受けたが、すでに単位が簡単に取れると評判のゼミを選んでいたので、無理であった。
 だが、国語の授業は、音楽や美術などさまざまな芸術に及び新鮮。そこで、ゼミでも学ばせてもらえないかと直接お願いにいくと、柔和な顔に笑顔を見せて聴講を許可してくれた。単位はもらえないけれど。こうして他の履修科目はさぼっても、国語とゼミは真面目に受講した。
 そこで学んだことが、どれほど教養として身に付いたかはわからない。ただ、音楽を例に挙げるならば、一つのジャンルにとらわれず聴き、シャンソンも好むようになった。青臭く生意気に前衛ジャズに傾倒していたのに、女性ジャズボーカルに一時的にはまった。怨歌にもまた。
 現代日本を代表する詩人で文化勲章受章者の大岡信(まこと)さんが5日亡くなった。86歳。その人の授業を巡り合わせで受けたことをありがたく思う。(八)

                        


 

方言音声を理解する機械の研究

(4月2日)

 一時でも都会暮らしをして、また記者という仕事柄、標準語で質問と受け答えをしているから訛(なま)りはあまりない方だと思ってきたが、田舎にどっぷり浸って歳月を経れば、やはりズーズー弁が濃くなっているらしい。
 東京から帰省した幼なじみと懇談すると、「あんたはいいハチオンだね」と茶化され、別の仲間からは「そのハツオン、イイネ」とからかわれる。反論できず、認めざるを得ないのが癪(しゃく)だが、「それもいい」とこの頃は思う。何しろ笑い話が生まれるから。
 何年か前、東京のJR山手線のガード下の大衆寿司(すし)屋で高校の同期生3人と飲んだ時のこと。握りで「シャコ」を注文したところ、アルバイトの若い女性が持ってきたのは、甲殻類ではなく軟体動物の「タコ」だった。「シャ」と明瞭(めいりょう)に発音せず、もごもご言ったので、誤解を生んだらしい。それで爆笑、タコを食べながら、ふるさとの方言に話題が広がった。
 知り合いの業界団体リーダーの携帯電話はスマートフォン。老眼がかかっているからか調べ事をインターネットで文字を打って検索するのが面倒らしく、スマホに話し掛けて探す音声検索を利用しているが、難渋する。
 里山に自生し赤く酸味のある果実の「ジュミ」をジュースにする話を教えてくれた際、それは正式には「ガマズミ」のことだと、音声検索して紹介しようとしたが、画面に表記されず、首をかしげながら何度か挑戦してようやく表れた。
 「ガマズミ」の「ズ」が「ジ」「ヂ」あるいは「ズィ」「ジュ」などと訛ったため認識されたかったようである。
 先日、岩手県立大学ソフトウエア情報学部が進めている「方言の音声を機械で認識する研究」のための、音声収録が能代市で行われた。同県宮古地方の太平洋側の方言発音に類似性があることが選ばれた理由。
 ほとんど方言で話し、「さしすせそ」「ざじずぜぞ」が混然とした顔ぶれがそろっていた。なぜか当方も呼ばれたが、言葉を読むたびに、ずいぶん訛っていると実感した。
 方言も訛りも残したい。それを理解するスマホ・パソコンの検索機能、カー
ナビの登場を待つ。(八)