草ぼうぼうの「しびつけね」

(8月26日)

 高齢の縁戚に使い物を持って行って、「少しは頑張らなくては…」と思った。家の周りや庭の雑草取りのこと。
 夫が入院中の女性は、暑い夏に自分一人ではままならず、人手を頼んで除草をしてもらった。それが訪問した日。近所に気兼ねしなくてもよくなったのか安堵(あんど)の表情を浮かべていた。
 別の独り暮らしの80代女性は、涼しい夕暮れ時に黙々と草むしりしていた。天候を見計らってまめに作業をしているらしく、風格のある古い家は、こざっぱりしていた。
 それに比して、独居男性の家の雑草は、あまり取り除かれておらず、中には草ぼうぼうの状態も。体の具合が悪くてできないのか、面倒くさくて放置しているのか。
 近所の庭が立派な家は、おばあさんが施設入所しており無人だが、旧盆に息子2人が帰省して草取りに精を出したためか、「人が住んでいる」を感じさせる。一方で、冒頭の親類の裏の家は空き家状態で、たまに首都圏の息子や娘が様子を見に来るが、今夏はだれも戻らず、また家の雑草には無頓着らしく、伸びた雑草や樹木が近隣に迷惑を及ぼしている。
 雑草の状態から、高齢化や空き家などさまざまな問題が見えてくるが、ふと「しびつけね」なる方言を思い出した。
 この方言は、20年以上も前に、不用品を敷地に大量に放置している家の対応に悩んでいる役所の人が使ったことで、現実感のある言葉として知った。
 各種秋田弁辞典によると、「しびつけね・しびつけなし」は「首尾をつけない、締まりが悪い、だらしない、不潔」の意味。「しびつけ」が「染み付け」と「躾(しつけ)」の語源説があり、「ね=なし」は甚だしいの意、つまり「染み付けが甚大」「躾がひどい」ということになろうか。
 使用例としては、「むげのかがてばシビツケネおなごだ。えのながぶだごやだ」(向かいの嬶=かかあ=はだらしない女だ、家の中は豚小屋みたいだ)を見つけた。
 家の周りの草ぼうぼうをもって、「しびつけね」と評するのは妥当かは分からない。けれども、家はもちろん、人としても、陰で「しびつけね」とは言われたくない。自戒の方言と受け止める。(八)

 


 

 

能代の商業とイオンの10年

(8月19日)

 「十年一日(じつ)の如(ごと)し」とは、10年がまるで1日であるかのように、長い年月の間、少しも変わらず同じ状態であること。能代市の商業のこの10年、表面的にはあまり変化がないように見えるが、実際のところはじわじわ変転してきた。
 中心市街地と称された地域の郊外の北と南と東に大型スーパーやドラッグストア、百均ショップ、ラーメン店が張り付き、旧来の商店街は櫛(くし)の歯が抜けるようにあの店、この店が閉店していった。
 老朽化したアーケードを解体せざるを得なくなった畠町はシャッター街化が際立つ。能代駅前は、旧公設市場が解体中で、飲食店が入ったビルが取り壊された。中和通りでもビル解体があり、空き店舗が目立つ。大町や上町の商店で組織されていた中央商店会は解散。店が連なっているのは柳町ぐらいだ。
 それは何も能代に限らず、全国の地方都市に見られる現象だが、能代では経営者の高齢化、厳しい商売、後継者難、経済の縮小などが絡んで、店を畳むことが加速度を増してきた。10年前60歳だった店主が70歳にもなれば、いつかは決断しなければならないのだ。
 それでも、なお踏ん張り、専門性を高め、アイデアを出して、顔の見える商いをしている元気な店はある。しかし、商業全体の力は弱まっていると感ずる。
 10年前に秋田自動車道能代東インターチェンジ付近に新能代ショッピングセンターの出店計画を明らかにしていたイオンモールが、新たな店舗計画の概要を市に示した。
 計画は繰り延べされ、市民の間からは「来るのか来ないのか」の疑問が上がり、また「凍結」の見方もあったが、昨年12月に当初の2階建てモール型施設から平屋に変更する方針が伝えられ、出店が濃厚となっていた。
 能代の商業環境の10年と、イオンの10年の事情。その天秤(てんびん)の上で、縮小の計画となったとみられるが、議会や市長の判断、かつて反対運動を展開した商業団体や市民団体の対応、消費者の受け止め方はどうだろうか。
 イオン側も、市を通じて概略を伝え、市にシミュレーションをさせるのではなく、自ら広く説明すべきではないのか。(八)

 


 

 

宇宙戦艦ヤマトの大合唱を聞いて

(8月17日)

 誰かがカラオケで「さらば地球よ、旅立つ船は」と歌い出すと、仲間の男女が次々と加わり、次第に高揚して「銀河をはなれ、イスカンダルへ」のフレーズへ、そして最後の「はるばるのぞむ、宇宙戦艦ヤマト」は大合唱となっていた。
 帰省者で能代の夜の街がにぎわった14日、スナックに集まった50代の同級生とおぼしき一団の一場面。
 子どもの頃に流行(はや)ったのだろう。皆懐かしそうに、楽しそうに歌っていた。男性は地球を救う戦士のヒーローのように、女性はともに戦う友か、救済の手を差し伸べる女王のような気分になっていたかもしれない。
 「宇宙戦艦ヤマト」は、1974年にテレビ放映、4年後に劇場公開されたアニメ。少年期が重ならないため、物語の内容は詳しく分からないが、ささきいさおが歌う主題歌(阿久悠作詞、宮川泰作曲)はアニメの名曲としてたびたび流れるので覚えている。
 大合唱を聞いていて、アニメの監督は「銀河鉄道999」でも知られる漫画家の松本零士さんで、能代で講演したことを思い出した。
 四半世紀前、能代市では商工会議所が中心となって宇宙航空開発関連の施設誘致に向けて運動、東北各地でも同様の動きがあり、東北宇宙開発推進協議会が開いている宇宙フォーラムが平成6年11月に能代で開催の運びとなり、当時日本宇宙少年団の理事長でもあった松本さんが招かれたのだ。
 その時、松本さんは宇宙がテーマの漫画を書くことについて、こう語った。
 「子どもの時の空想や考えていたことを大人になって肉付けしているだけ。だから楽に仕事ができるし、子どもの頃の夢が一生を左右することになる」
 「宇宙は『第二の海』。いずれ宇宙航海の時代を迎える。宇宙を舞台とした漫画を描き、宇宙少年団の活動をしているのも、子どもたちに夢を与え、宇宙への関心を持ってもらうため。そして星への思いをバトンタッチするためである」
 きょう17日から能代宇宙イベント。20日は「のしろ銀河フェスティバル」。さまざまなイベントが企画されている。松本さんが語った夢を、関心を。(八)

 


 

熊肉食べるにはイヨマンテの心で

(8月13日)

 誰にはばかることなく食べることとする。熊肉。友人が冷凍を届けてくれた。
 彼は腕前がいいはずだが、長年取得していた狩猟免許の更新をしなかった。体力の衰えを感じているうえ、猟銃と火薬(弾)の管理やさまざまな手続きが面倒過ぎるためという。だが、仲間のつながりは強く、リタイアした彼に、有害駆除したツキノワグマの肉が配られ、それをお裾分けしたのだ。
 熊肉を食べる文化は、マタギの里の阿仁地方をはじめ能代山本にもあった。昔は有害駆除で射殺されると、その肉が管轄の県農林事務所や警察署に届けられ、「熊鍋」となり、新聞記者も相伴に預かったものだ。
 しかし近ごろ、熊肉を食べるという行為は、後ろ暗さがつきまとっていた。それは、下手物(げてもの)とまではいかないものの、「やばそうなもの」を口にする珍奇な人に見られがちであるからである。
 さらに、小紙がクマの有害駆除の報道で射殺体を載せたところ、県外の動物愛護団体が役所に抗議の声を寄せたことがあったから。県内でクマに襲われて死亡する事故が相次いでからは、そのようなことも聞かなくなったが。
 では、なぜ大手を振おうとするのか。「イヨマンテ」の意味を知ったためだ。
 子どもの頃、大人たちが「イヨマンテの夜」を歌っていた。「アーホイヨー」から始まる伊藤久男の歌は、作詞・菊田一夫、作曲・古関裕而で今なお歌い継がれており、イヨマンテは熊祭りと理解していた。
 届いたばかりの新刊本「なくなりそうな世界の言葉」(吉岡乾著、創元社)では北海道に残るアイヌ語の代表的な単語として「イヨマンテ=熊送り儀礼」を挙げている。
 「捕らえた小熊(の姿をした神様)を、一定期間、大事に村で育て、お祈りをしつつその肉を村人全員で、心から感謝するとともに食べて、その魂を神の国へと送り返す祭。神様は、ヒトの世に降りて来るときには動物などの姿に化け、その身の肉や毛皮をヒトへのお土産として持参するのだという」
 クマとて厳しい運命にある。ヒトは感謝の念を抱きお土産と受け止めいただく。  (八)

 


 

いまさらの「危機管理の見直し」

(8月9日)

 なんだかなあ、と残念に思う。こんなこといまさら決めて「見直し」と言われても、至極当たり前のことであり、それさえもできずに失態を招いた責任はどうなるのか、と改めて問いたくなる。
 あれ以降、雨がほとんど降らないのは皮肉だが、7月22日から県内を襲った集中豪雨の際、佐竹敬久知事が宮城県に県庁のOBや現職部長を引き連れてゴルフに出掛けて飲食・宿泊、翌日の自ら招集した連絡会議に間に合わなかった問題である。
 多くの県民が消沈気味に詫(わ)びる知事の報道写真やニュース映像を見て、事の顛末(てんまつ)は知っているだろうけれど、再録。知事に県の防災担当が携帯電話に大雨の報告や気象情報をメールしたものの、知事は「しっかり見ていなかった」。知事は私用の外出先を秘書課に伝えておらず居場所不明。県側が知事に電話することもなかった。
 そこで、県は情報伝達方法を含め危機管理体制を見直すことを決め、7日に県議会の常任委員会に報告した。その内容にあきれてしまうのだ。逆に危機管理意識がいかになかったのかを、再びさらけ出す。
 今後の災害時は知事へメールだけでなく、電話での連絡も徹底するそうだ。会社に重大事態が発生しそうだと報告があれば、幹部は何が何でも社長を探すのに。いや、社長はいつでも連絡が入るようにしているはず。
 幹部職員は知事に伝えた情報を共有し、公務外の知事の所在も把握するようにする「見直し」も。息抜きに私的な付き合いも必要だが、秘書ぐらいには行き先を内密に教えておくものでは。秘書課は信頼されていない、秘書さえも信じていないということなのか。
 課長以上の職員は、気象や危機の情報のメール配信の登録を義務化するそうだ。あんな大雨だったら、県からのメールを受けなくても、県職員のそれぞれの立場・役割を肝に銘じて、自ら情報の取得に積極的であるべきなのに。
 などと、突っ込みを入れるが、今回の問題の根っこは知事と県庁組織にある。情けない「見直し」は必要だが、まずは猛省であろう。10日の議会全員協議会を注目する。(八)

 


 

 

「天空の不夜城」で出会った人

(8月6日)

 先月30日に青森県黒石市に黒石ねぷたの合同運行を見物に行き、食事処(どころ)に入ると、先客に70歳前後の男性4人。静岡県の静岡市と藤枝市から来たという。
 これまでにも青森ねぶた、弘前ねぷたを見たと話しており、夏暑い地に比べると涼しい北東北を旅して、その中に勇壮な祭りを組み込んでいるようだ。誰かが「能代のねぷたも凄(すご)いらしいね」と話し、「そうそう」と仲間が相づちを打った。
 静岡の優雅なシニアたちは、能代の「天空の不夜城」を、青森のねぶた、弘前・黒石のねぷたと同様の祭りと捉え、今年は無理でもいつかは見たいと思っていた。
 3日と4日の能代の七夕祭りの「天空の不夜城」。青森や弘前、黒石、立佞武多(たちねぷた)の五所川原、そして竿燈(かんとう)の秋田のように、運行コースに早くから観光客が陣取り、飲食を楽しんで出発を待ち望むという光景は少なかったが、それでも出発前の午後6時ごろから見物客が集まり、夜空に巨大灯籠がくっきり浮かぶと、人だかりが出来、8時すぎの「ふれあいタイム」の頃は熱気に包まれていた。
 柳町の飲食店主は「5日は忙しかったですよ。県外のお客さんも多かった。バスが止まったのですが、福島ナンバーでした。出店では完売したところもあったと聞いた」と話していた。
 母と息子の2人連れに、「どこから来ましたか」と尋ねると、「大曲からです」。能代から花火の観賞に出掛ける人は多いが、わざわざ能代七夕を見物に来てくれるとはありがたい。
 東京在住の後輩とばったり。次女とその友人と居酒屋巡りをしながら不夜城を楽しんだ。彼は昨年も妻と長女夫婦ら都合5人でこの時期来ており、今年で5年目のふるさとの七夕に大きな関心を寄せ、微力ながら宣伝したい気分なのだろう。
 友人は仕事仲間を連れて来た。長崎県と男鹿市の人だった。漏れる言葉は「すげえ」。付け加えて高さ7㍍の能代若のやさしい電球色を指して、「俺はあっちがいい」と。こちらは木車の音に懐かしさを感じた。
 「天空の不夜城」の人出はまだまだである。しかし、観光資源として確実に認知され、市外から人を呼び込んでいる。(八)

                        


 

 

黒石ねぷたを見物に行って

(8月2日)

 一昨年の夏、能代に帰省した夫婦が「行きたいところ」と挙げた青森県田舎館村の田んぼアートと黒石市の江戸時代から続くアーケード状の通路の「こみせ通り」を案内した。
 その「こみせ通り」の一角に黒石の観光を紹介するコーナーがあり、「黒石ねぷた」のDVDが上映されていた。濁声(だみごえ)の号令音頭の後に、「ヤーレヤーレヤ」の威勢のいい掛け声が響き、太鼓と笛のお囃子(はやし)、そして弘前市に代表される扇型の灯籠と、青森市に似た勇壮な人形型灯籠が次々と登場していた。
 毎年60ぐらいの灯籠が出るとの説明。いつか見たいものだと思った。けれど、能代の七夕ウイークと重なりそうだから、地元のさまざまな灯籠見物を優先すれば、そう簡単に行けない、と半ば諦めていた。
 ところが、ポスターには、開催日が7月30日から8月5日まで。弘前ねぷた、青森ねぶた、五所川原の立佞武多(たちねぷた)よりも先行して行われるのだと知り、ならばと、30日の日曜日の合同運行に出掛けた。
 夕闇迫る6時半にスタート。町内会に子供会や愛好会、職場、地域の有志団体がそれぞれ熱い思いを込めて製作し運行するねぷた。青森の人形、弘前の扇よりやや小さいけれど、精巧微細な武者絵や合戦図が描かれた灯籠には目を奪われるばかり。それを曳(ひ)き、囃子を付ける晴れやかな一行からは、元気をもらい拍手を送った。幼子を抱いたりベビーカーを押したりしながら、引っ張る母親たちも頼もしかった。
 黒石ねぷたは江戸時代から行われてきたが、現在の運行形態になったのは1955年に地元青年会議所が主催してから。50年以上も続けて参加している団体もあるという。
 少子化・高齢化で運行を見合わせるケースもあり、かつては70台が繰り出していたそうだが、今年は54団体にとどまった。それでも人口3万4000人の都市規模からすれば、かなり熱狂しているように見えた。
 運行コース沿いには、住民や観光客が席を取り、見物しながら飲食を楽しんでいた。3時間以上にも及ぶ住民参加型のねぷたの熱気と絵巻は、遠来客を飽きさせることはなかった。能代はどうだろうか。 (八)