難儀な空き家の雑草取り

(5月30日)

 仏壇があり、きょうだいが回忌法要や旧盆の折に宿泊するので、時折窓を開けて空気を入れている空き家同然の実家。維持していくのに難儀なことの一つに、庭の管理というより雑草取りがある。
 草ぼうぼうになっては見場はよくないし、明らかに人が暮らしていない状態では野生の動物にすみ着かれかねない。それは近所にはた迷惑であり、草や木の枝が伸び切っては両隣と奥の隣家にとって困ったことになる。
 そこで、今年は例年より早めに一人で雑草取りをした。業者に依頼すれば費用も掛かるし、暑い盛りになっては熱中症の心配もあるので。しかし、こっちにはスギナ、あっちにはドクダミの群生地、そっちには根っこの深い知らない野草の連なりといった具合で、見渡した瞬間にめまいが起きそうになった。
 それでも、何とか気力を振り絞って、しゃがんで鎌を使いながら掘り出し、剝ぎ出していくのだが、もともと不器用なうえに、寄る年波から5分もすれば息が上がり、10分経過で疲労感が増してきた。ちっとも進まず、いつになれば終えることができるのか、いい加減なところでやめようかと諦めが頭にもたげる始末であった。
 結局、早朝延べ4日かかった。頑張ってきれいになったと思ったのだが、しかし通り掛かった人は「精が出ますね」と励ましてくれたけれど、前庭にまだ雑草が結構残っていることを指摘した。また別の人は、いつの間にか増えたスズランとマイヅルソウ、コバンソウが椿の回りにびっしりとなっていることに、少し取り除いたらとアドバイスをした。
 回忌法要で帰省した幼なじみが広い庭の雑草に悩んでいた。両手ハンドル式刈払機がある仲間が助っ人を買って出て、日曜日の朝にギュインギィインと音を響かせながら刈っていくと、あっという間に作業を終えた。大きな熊手で集めていた彼女は「よかった」とほっとした表情。
 だが、家回りに大きく伸びた竹の下にはタケノコが顔を出していた。10本ほどポキリ、味噌(みそ)汁の具に。町場で採れるとは驚きだ。近所の空き地に竹薮(たけやぶ)が大きく広がっている。空き家の草木も伸び放題である。(八)


 

クマにおじょかへられて

(5月25日)

 食事処で昼食を取っていると、先客の先輩と手の空いた店主が、タケノコを話題にしていた。
 先輩曰く、仕事仲間が朝に取ったネマガリタケを「ひとがだぎ(一炊ぎ)」分をくれたそうだ。それをアルミホイルに包んで焼き上げ、皮を剃いでアツアツに塩を少し付けて食べたところ、歯触りは柔らかく、良い香りが広がって、「最高に〝んめ〟がった」と。
 それを聞いた店主は、「やっぱりこの時期、タケノコだよな」とうらやましそうな顔をした。山菜採りにはよく行っていたが、クマの出没情報が頻繁で、人が被害を受けるケースも多くなったので、「おっかねしていげね」(怖くて行けない)になったよう。かといって、市場に出回るものは案外に高値であり、ただを経験してきただけに癪に障るというわけだ。
 山に詳しい友人に、シャキシャキ感がうれしい山菜のミズ(ウワバミソウ)を取りに連れて行ってと頼み込んで自宅に寄ると、彼の元気な母親から声を掛けられた。冗談ぽくも心配なようにも。
 「体力はどうですか」「クマと戦う気力ある?」と。どちらの質問にも「ありません」と返事したが、ふと方言の「おじょかへる」が浮かんだ。
 「おじょ」は「脅し」で、「かへる」は「食わせる」。つまり「おじょかへる」は、冨波良一著「再録能代弁」では、「びっくりさせる。大きなこと・身ぶりで相手をひるませる。相手に威圧感を与える。脅しをかける・はったりをかける。強迫する──などの意としている。
 関連する方言で「おじょまぐる」は「脅されて縮かむ・しっぽを巻く」、「おじょまげする」は「相手の威圧にけおされる・気迫にのまれる」。
 友人はクマに一度も遭遇したことがなく、「大丈夫」というので、「おじょまぐる」ことはせずに安全と警戒を心して出掛けると、林道沿いの笹藪で幾つかのタケノコを見つけた。また清流付近では赤ミズがニョキニョキしていた。
 その夜、先輩を真似て皮ごと焼いたタケノコを頬張ると、やはり最高に〝んめ〟だった。
 けれど、クマに「おじょかへられる」今のわが地方は不安であり残念だ。(八)


 

マスクの女性と自己弁護の男性

(5月20日)

 昼に食堂でラーメンを食べていると、先客が帰りがけに「元気ですか」と声を掛けてきた。大きなマスクをしていたので誰なのか分からなかったが、以前の勤務先を教えたので名前がよみがえり、名字を口にしたところ、「覚えてくれてありがとう」の言葉が返ってきた。
 続けて「年を取ってしわが増えたので、マスクをしているの」と。
 30年前に取材で彼女の勤め先によく出入りしていたが、その頃はふっくらして顔も丸っぽかったのに、今はスリムになって小顔の印象。ダイエットしたのか、体力が落ちてやせたのかは分からないけれど、素の顔でやさしい微笑を見せてくれればよかったのに。
 鼻の両脇から唇の両端に伸びる2本のほうれい線が目立つようになったのを気にしているのだろうか。顎に梅干しのようなしわや縦じわが出ることで口元に若さが失われたと感じているためなのか。そこはよく分からない。
 もしそうだとしたら、その原因は加齢によるものだけだろうか。ストレスやコラーゲン不足、バランスのよくない食事も重なっているかもしれない、などと余計な想像をしてしまった。
 それにしても、女性はいつまでも若くありたいと願うものだと改めて知らされた。けれど、テレビに映し出される女優の倍賞姉妹の千恵子さんと美津子さんがしわが深くなっても存在感があるように、「年相応」があってもいいとも思う。
 先日、顔見知りの男性が「苦労は脂肪になる」と話して周囲の笑いを取っていた。ずんぐり体型に突き出たお腹。食事はもりもり、お酒もぐびぐびらしい。それもこれも「日々の苦労」によるものと自己弁護したのだ。
 脂肪は燃やせば減るはずだが、壮健であるための運動はしていないようだ。苦労によって増した脂肪は「燃えるもなのか」と言っているぐらいだから。
 年を重ねても女性は美容と健康に気を使う。一方で老いてくる男性はきちんとした身なり、模範となる食事はいるにはいるが、概して無頓着になりがちであり、摂生も怪しい。
 秋田県の、能代山本の男性の平均寿命が短いのはいかにもなのだ。(八)


 

政治、野呂田氏秘書の時代

(5月15日)

 衆議院議員を8期、参議院議員を1期務め農林水産大臣や防衛庁長官を歴任した能代市出身で横浜市に住む野呂田芳成氏(88)の自慢は、自分の秘書が後に首長や国会議員になって確かな道を歩んでいることである。
 9年前の政界引退後まもなくの雑談と、米寿を迎えた2年前の能代で開かれた「囲む会」でのあいさつ、昨年6月の能代市民栄誉賞授与式での謝辞と少なくとも3回聞いた。振り返れば秘書を育て、選挙という厳しい洗礼を受けて当選する政治家を生んだということへの感慨が潜んでいた。
 斉藤滋宣氏(65)。説明するまでもなく平成18年の合併後の能代市長選に当選、4月に4選を果たした。北海道出身で中央大学在学中に野呂田氏の秘書となったことが縁で、旧二ツ井町を地盤に山本郡の県議選に立候補、2期途中まで務め、参院選に転じ当選したが、再選ならずで、雌伏を経て市長選に転じた。
 福原淳嗣氏(50)。若くして地元大館の市議を2期経験した後、野呂田氏の公設と政策担当の秘書となり、野呂田氏引退後は金田勝年氏の秘書に。その後、市長選に出馬するも落選、3年前の市長選に再挑戦して現職を破って当選した。
 冨樫博之氏(63)は野呂田氏の秘書を16年間務めた後に、地元秋田市の県議選に立候補、5期連続当選、議長を経て5期目途中で秋田1区の衆院選に向かって当選、現在3期目だ。
 ほかに、能代市出身で南秋田郡選出の県議4期目の平山晴彦氏(63)も野呂田氏秘書だった。
 13日の三種町長選で初当選した田川政幸氏(46)も野呂田氏、金田氏の秘書として26年間働いた。選挙戦では「今が秘書時代に築いたパイプを生かすべき時期」と訴えていた。
 国会議員の秘書になるのは、政治への目覚めが確かであるためであり、チャンスに恵まれれば立候補の覚悟も高いはずだ。全国の市町村長に秘書経験者は多く、また国会議員では衆参併せて200人近い議員秘書・大臣秘書官出身者がおり、珍しいことではない。
 秘書も人柄も弁舌も人脈もさまざまである。が、政治の人材はもっと多彩であってもいいとも考える。(八)


 

母の日に思う「おしめ」と「あがとり」

(5月10日)

 「襁褓」という難しい漢字を「むつき」と読み、その意味が「おむつ」と教えてくれたのは、公私混同問題で東京都知事を辞任した舛添要一氏だった。
 20年前に氏が出版した「母に襁褓をあてるとき─介護戦いの日々」。国際政治学者が政治家を志した原点は、九州に住む母が認知症となって東京から遠距離の介護で痛感した福祉政策の問題点からだったとの内容で、母にあてた襁褓の文字が強烈な印象として残った。もっとも後に週刊誌で「母の介護」の実態が叩(たた)かれたが。
 襁褓もおむつも理解できてもいまひとつぴんとこなかった。襁褓は初めて知った言葉で、おむつはほとんど使ってこなかったから。子が生まれて数年は、「おしめ」と呼んでいた。
 わが地方では物干し竿に何枚も吊(つ)るされて風になびくのは「おしめ」、おしっこを漏らし、うんちが臭って換えるのは「おしめ」、湿布(しめし)が略されて接頭語の「お」が付いた言葉だった。
 おむつと言うようになったのは、市販の紙製が平成に入って普及し、大人用も認知されるようになってからで、実際に高齢化した父と母にテープ型が必要となって購入に走らされて、布ではなく紙であることに、おしめではないと思うようになった。
 先日、冠婚葬祭の引き出物が話題に。
 今はカタログであれこれ自由に選ぶが、以前はシーツやタオルケットが多かったという女性がいた。その人の連れはシーツに対して、「敷布だよ」と日本語ではなく英語で呼ぶことに抵抗感を示したところで、彼女は「あれ〜、何だっけ」と遠い昔を懸命に思い出そうとしていた。
 ようやく出たのは「汗取り」。なるほど、シーツは寝汗を取るからそのような言い方があるのかと考えたが、後日、「汗取りじゃなくて、あがとりだった」と訂正してきた。
 「垢(あか)取り=身体の垢を吸い取るところから生まれた」と方言辞典。「アガトリあらうんてとりけれ」(敷布を洗うから新しいのと取り換えなさい)と使用例を紹介していた。
 「おしめ」に「あがとり」。それを洗い干す遠い日の母たちの姿が浮かんできた。間もなく「母の日」。(八)


 

成長願い郷土の味、わが家の味

(5月5日)

 「カレーって作らなくなった」と知人が話していた。聞けば、「こどもの日」に娘が求めたごちそうは、母の手作りカレーライスであったという。子が巣立ってからはほとんど献立になくなったようだ。懐かしい食事の場面を「こどもの日」が近づいて思い出したらしい。
 同席の面々も、息子・娘が子どもの頃の家族団欒(だんらん)を回想していた。わが家のハンバーグや揚げ物など洋風の手料理は次第に消えていき、中高年になった今は目の前にあってぱくついている山菜や魚介が主体。食の嗜好(しこう)が変わったことと、若い世代のメニューが遠ざかったことに感慨を覚えているようだった。
 遠い昔の自分が子どもの頃、「こどもの日」に特別な料理の振る舞いはなかったと記憶する。母親が忙しかったのか、家族が多かったためか。ただ、旧暦の5月5日に「尚武の節句」として、おやつに笹餅をよく作っていた。
 イグサの紐(ひも)をほどいて、爽やかな香りの笹の葉を開くと、もちっとした白い餅が現れ、頬張るとほんのりした甘さ、弾力は硬すぎず柔らかすぎず。それとは別に「くろ」と呼ばれた黒砂糖を使った焦げ茶色の笹餅は風味が良くて格別に美味(おい)しかった。
 今は笹餅は家庭ではあまり作られず、農家の女性たちが農産物直売所に出しているぐらい。端午の節句では柏餅が主流だ。
 去年の夏に北海道を旅して、お土産を買うためにバターサンドで有名な菓子店の本店を訪れると、和菓子も扱っていて、その中に白と茶色が交互に4つ入った丸い餅があった。白と黒の2色が牛に似ていることから名前がついたと言われる「べこ餅」だった。
 何となく笹餅の白と黒を合わせた感じがして、つい購入した。帰宅して食べてみると、こしのある歯ざわりの中に、やさしい甘さがあって、母の笹餅がよみがえったような気がした。
 その「べこ餅」。北海道では端午の節句が近づくと、よく売り出されるという。主に木の葉型でツートンカラーだが、さまざまな色と形があり、柏餅よりべこ餅だそう。
 子どもたちの成長を願い、わが家の味、郷土の味を。(八)


 

加藤元監督を偲(しの)びつつ能代カップ

(5月2日)

 能代カップ高校選抜バスケットボール大会が3日に開幕する。選手のプレー、監督の采配に厳しい目を向けていた人が、今年はいないことを寂しく思う。3月4日に80歳で亡くなった元能代工高バスケット部監督である。
 加藤さんの人脈と能代工が築いた偉業が基礎を作った大会に大勢のファン、市民が押し寄せて観戦することを望みたいものだ。
 さかのぼること昭和62年4月。戦後最大と言われた市長選で2人の新人候補は、公約の目玉にスポーツの振興と、バスケの街づくりを位置づけて訴えた。当選した宮腰洋逸氏は「かつては体操の能代として有名でした。今はバスケットです。しかし、これほど強いチームがありながら、公式のビッグイベントを開ける施設がありません。すぐできるとは言えませんが、市行政もそういう夢を持ち続けたいものです」と。
 同様のことを市議選でも、その前に行われた県議選でも取り上げる候補が相次いだ。
 その段階で加藤さんが指導した能代工は、全国優勝通算28回。59年に本県で行われたインターハイで男子バスケは会場の問題から能代開催がかなわず、多くの市民は能代工の活躍と優勝の瞬間を見ることができなかった。
 それを背景に、選挙後に全国の強豪を集めた大会の開催と総合体育館建設の検討が具体化。しかし当時、独自の地方大会は岐阜や高崎、新潟などで行われており、また「バスケの街」といっても能代市内にはミニバスケのチームがないというお寒い状態で、底辺拡大も急務だった。
 課題は山積でも、翌63年に市民体育館を主会場に、実力校7校が参加した第1回能代カップにこぎ着け、真剣勝負が観衆を沸かせた。そして、年を経て総合体育館の完成、ミニバスケの普及や加藤さん提案の公園にバスケリング設置などソフトな事業も進んだ。
 大会は今年で31回目。加藤さんの存在があればこそであったが、指導者からは「目の肥えた観衆が刺激になる」「全国選抜さながらの緊張感」などの評が聞かれ、「憧れの地の由緒ある大会」に育ったのである。
 関係者の尽力に感謝しつつ、能代工の復活を期待する。(八)