帰省者が伝えた方言の面白さ

(8月31日)

 この夏にふるさと能代山本に帰省した何人かと懇談すると、彼・彼女から方言が漏れたり、方言の失敗談が飛び出した。
 30代の女性は「なげる」が方言だと知らずに、長く使ってきたと苦笑いした。ある時、夫に「ゴミなげてきて」と頼んだところ、「なげる?」とけげんな表情をされたそうだ。
 確かにゴミを投げてはルール違反。不要になったり処分に困った物は捨てなければならず、分別して収集所に持っていくべき。しかし、能代山本、秋田や青森では、ゴミステーションに持っていく「捨てる」行為を「なげる」と言う。
 彼女も幼い頃から、「ゴミはなげるもの」とばかり思ってきたから、「捨てる」を言い表す方言とは理解していなかったよう。しかし、標準語では「捨てる」と「投げる」ははっきり区別しており、驚かれることになるのだ。この「なげる話」は以前、ほかの人からも笑い話として聞かされたことがある。
 郷愁を誘う能代の役七夕を見物あるいは参加するためほぼ毎年実家にやって来る同級生は、妻や息子を伴うことはほとんどない。猛暑の東京から避暑に連れてくればいいのにと思い、そのことを問うと、彼は「なんも、一人がいい。ひんじぇど、す」と意外な方言を使って返した。
 「ひんじぇど」は、秋田弁の各種辞典によると、「せいせいと、のびのびと、思う存分」の意。語源は見当たらなかったが、「清々と」が訛(なま)ったものと思われる。
 類語に「やぐやぐど」がある。「楽々と、何の気兼ねもなく」の意で、語源は「楽々」を「薬々」と書き誤り、それを読んだものが一般化したもの、とされている。
 彼は、猛暑の都会から涼しい実家に来てのんびりできて、「やぐやぐした」とは言ったが、小言の妻や憮然(ぶぜん)たる息子の家族から逃れて一人になったことは「ひんじぇど」である。
 この使い分けは微妙だが、何となく分かるような気もする。ある女性が老いた父と母が短期介護で離れ離れになった時、父に「寂しくないのか」と尋ねると、返ってきた言葉は「ひんじぇりした」であったそうだ。
 方言の面白さ、奥深さを改めて教えられた8月だった。(八)


 

国民民主党のチラシなぜ今

(8月27日)

 26日配達の新聞の折り込みに、顔写真がずらりと載ったチラシが入っていた。印刷文は「私たちが、国民民主党です」。
 衆議院に解散風は吹いていないし、参院選は来年の7月でまだ先。なのに今なぜ政党のチラシなのかと変に思いながら裏返しすると、「9月4日、新代表が決まり、新しい国民民主党がスタートします」と書かれ、秋田県総支部連合会の幹部の写真を掲載していた。
 代表が衆院選の比例東北で復活当選した緑川貴士氏であることは知っているけれど、幹事長兼政策調査会長が秋田市議、総務会長も別の秋田市議であるとは報道されただろうが記憶になかった。
 つまりチラシは、新代表の選出が9日後に迫り、少しでも関心を持ってもらおう、そして党の認知度を高めたいという狙いがあるとみた。
 それもそのはず。昨秋の衆院選で民進党から小池百合子東京都知事が振った旗の下で当選した「希望の党」移籍組と、主に参院議員の民進党残留組が、今年5月に発足させたのが国民民主党だが、別れてまた再結集とは選挙目当てに映り、国民の心が離れているからだ。
 各種世論調査でも国民民主党は超低迷。時事通信社の政党支持率では6月と7月が0・6%、8月が0・5%で、「限りなくゼロに近い」。もっとも本紙の能代市の新成人意識調査の政党支持では、2・8%で野党では一番高く健闘しているが、これは緑川氏が秋田2区総支部長を務めていることも起因していると思われる。
 5月初めに、当時民進党と希望の党合わせて衆参107人いたが、国民民主党に参加したのは62人。旧民進党と袂(たもと)を分けた立憲民主党に野党第1党の座を明け渡しており、党の存在感をどう高めていくのか課題だが、代表選の前に、また離党騒動も起きている。
 県内の党員・サポーターは7月時点で688人。民進党時代の昨年8月の1498人から半減。前身の民主党が政権の座にあった5年前の5月の3482人とは隔世の感だ。
 さて代表選。周囲に聞けば、だれが立候補しているかさえ分からない人が多い。盛り上がらず、前途多難をうかがわせる。(八)


 

金足農の快進撃、ついに

(8月21日)

 20日。試合が終了すると同時に、スマートフォンが震えた。ラインメールに「やった泣」。東京に住む縁者からだった。
 直後、東京在住の幼なじみからグループラインに「勝ったねー今夜はビールがうまそうだ」と。さらに神奈川県に住む能代出身者から「金農、素晴らしいね!秋田は盛り上がっているよね?決勝も楽しみ」と。
 先日帰省して懇談した高校の先輩からは携帯電話メッセージ。「勝ったぞ!金足農業。2─1、日大三高。秋田勢が決勝進出!」と。
 皆が手に汗握って甲子園球場の準決勝をテレビ観戦、本県代表の金足農が勝利した瞬間、興奮を抑え切れず、喜びを共有したいと連絡してきたのだ。
 母校でなくても、秋田の人々は、そして全国各地に暮らす秋田出身者は県代表を応援するものだが、金足農の試合をテレビで見て、あるいはニュースやインターネットの速報を気にかけ、決勝進出が決まって、わが仕事場のように、あちこちで拍手や歓喜の声が湧き上がったはずだ。
 昭和60年に能代商(現・能代松陽)が初めて甲子園に出場、その初戦をアルプススタンドで取材した時、近畿圏の能代ゆかりの人々が続々集まっており、「甲子園にふるさとがある」と思ったが、金足農の快進撃はそれをさらに高めていると感じた。小欄への4つの伝言からでも。
 8月に能代市で出会った元プロ野球大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)投手で、同球団のスカウトや合宿寮長を長く務め、また本県高校野球を温かく見守ってきた稲川誠さん(82)の言葉を思い出した。
 金足農の県大会優勝は本県にとってベストであったという内容であった。吉田輝星投手が県内1番のピッチャーで成長著しく、甲子園でも必ず活躍するだろうし、チームにも底力がある、野球留学が目に余る中で全員が県内の選手で公立高校であることは意義がある、などと。
 プロの鋭い洞察力だったと、感服する。
 先輩から再びメッセージ。「農業高校も東北勢も優勝したことがない。優勝したらダブルです」と。それを願って能代山本からも盛大な応援だ。(八)


 

金足農の校歌を聞いて

(8月16日)

 100回目の夏の甲子園・全国高校野球選手権大会。14日の2回戦で秋田代表の金足農は、大垣日大(岐阜県)を6─3で下し、16強入りした。校歌を聞いてウルッとした。
 県勢の勝利、顔に汗を噴き出させながら上半身を反らせて歌うナインの雄姿がうれしかったこともあるが、歌詞が何とも心に染みたから。
 「可美(うま)し郷(さと)/我が金足」から始まる校歌は、こう続いた。
 「霜しろく/土こそ凍れ/見よ草の芽に/日のめぐみ/農はこれ/たぐひなき愛/日輪の/たぐひなき愛/おおげにや/この愛/いざやいざ/共に承(う)けて/やがて来む/文化の黎明(あさけ)/この道に/われら拓(ひら)かむ/われら/われら/われら拓かむ」
 間もなくして、能代出身で南関東に住む人がメールを寄越した。自分と同じことを感じていた。「金足農業すごいね!エースが頼もしい。そして校歌の歌詞に感動しました。秋田の自然、農業への誇りと敬意が感じられる」と。
 金足農は11年ぶり6度目の甲子園出場。県大会での優勝、甲子園での初戦突破、ベスト4入りと何度かは校歌を聞いているはずだが、歌詞もメロディーもほとんど記憶になかった。
 それが今回、心の底から感じ入ったのは、秋田の現状と未来が厳しく、農業もまた難しい時代にあって明日に向かってどう進むべきか問われている中で、耐えて負けないで、「われら拓かむ」と鼓舞するからかもしれない。
 吉田投手の尻上がりの好投、大友選手のここぞの本塁打、9回のだめ押しなど金足農の素晴らしい戦いが、「われら拓かむ」を象徴して、県民に感動を呼んだとも思える。それはまた、全国の農業高校の生徒や、農業者にも広がっているはずだ。
 金足農は、能代山本勢とも数々の名勝負を残してきた。とりわけ、能代とは因縁めいており、甲子園を懸けた県大会決勝では昭和59年に能代が5─6で敗退、平成4年には逆に6─5で能代が勝利した。今年は3回戦で能代が3─4でサヨナラ負け。
 17日には横浜(神奈川)と3回戦。強豪何するものぞ、再び校歌を聞くことを期待して応援観戦する。(八)


 

「お年玉」ならぬ「お盆玉」

(8月12日)

 「おぼんだま、って聞いたことある?」と知り合いに質問された。お盆に先祖の霊を迎える「お盆棚」のことかと思ったが、「たな」ではなく「たま」だという。よく分からずポカンとしていると、「お年玉ならぬお盆玉なんだって」と付け加えた。
 月に一度ほど会う若い女性が「お盆玉を用意しなければならない」と話したとのこと。旧盆に実家に兄弟姉妹の家族が集まると、子どもたちに正月のお年玉と同じようにポチ袋にお金を入れてあげるとの説明だったそう。
 その話を教えた女性は、60代半ばまでの人生で「お盆玉」をもらったり配るということは全くなく、それどころか言葉自体を初めて聞いたという。その驚きを伝えながら、小欄は知っているかと問うたのだが、こちらも初めて耳にした。
 若い女性は能代市の農村部に生まれた。集落の風習なのか、それともその家の独自の取り組みなのか、そこのところは聞き漏らしたので分からないらしい。
 そこで、調べると、最新刊の広辞苑には載っていなかったが、インターネット上には次々と出てきた。
 3年前の8月3日の産経新聞の記事を引用すると、「お盆に帰省した子供や孫に小遣いを渡す『お盆玉』と呼ばれる新習慣が広がりを見せている。名称は国内の紙製品メーカーが商標登録した“造語”だが、新たな需要を取り込もうと専用のポチ袋も続々と登場。親類縁者が集まる場で使われるとあって、購入者のリピーターも増えている」
 一部地域では、江戸時代の頃に奉公人に衣類や下駄などの〝お盆小遣い〟を渡す習慣があり、それが昭和初期に子どもに小遣いを贈ることに変わったそうだが、広がりはなかったとみられる。しかし、平成になってポチ袋の需要を起こしたい紙メーカーの戦略が浸透。能代でも「お盆玉」をする家が出てきたというわけだ。
 お年玉のようになっては、物入りの時期に父母や祖父母に負担は大きくなってしまい、そこのところはそれぞれの家庭の考えどころ。けれども、旧盆に親類縁者が顔を合わせること、帰省できない場合はせめて声を掛け合うことは大切にしたいものだ。(八)


 

「青春機関車展」が運ぶ懐しさ

(8月10日)

 遠い昔、近所の子どもたちと能代駅や米代川の鉄橋周辺で蒸気機関車(SL)が牽引(けんいん)する列車・貨車を見物に行った。男の子は動く物が好きで、特にSLの車輪が回る迫力と、もくもくと吐き出す煙、少し悲しげな汽笛に魅せられた。
 今では危険極まりないと往来妨害罪や鉄道営業法違反で補導されるし、親も「絶対ダメ」と厳しく叱り近づけさせないだろうが、踏切周辺で線路に耳を当て、カタカタと遠くからやってくる列車の音を聞く遊びもした。
 さらに、肝試しで大人の真似をして鉄橋を渡り、SLが汽笛を鳴らし警告すると、急いで板敷きの待避所に逃げ通過を待った。のどかで鷹揚というべきか、いい加減だったのか。
 そんな時代が、懐かしくよみがえった。8日から能代市文化会館中ホールで始まった「青春機関車展」だ。
 通称「ハチロク」と呼ばれる蒸気機関車8620型の写真を集めた展示。1973(昭和48)年3月25日に五能線での運行が終了すると知った当時の八森町の汽車通学の高校生が、ハチロクの雄姿が消えることを惜しんで、その1年ほど前から能代の同級生も巻き込んで撮り続けたという。
 昨年秋、何人かが集まった酒席で「ハチロク写真展」の話が盛り上がり、八峰町出身で東京在住のカメラマンの須藤昌人さん(62)が制作を担当して開催にこぎ着けた。逝去した1人を含め須藤さんら8人(うち女性1人)の写真が並んだ。期せずして皆がネガフィルムを保存していたそうで、「青春の思い出」を大事にしていたのだ。
 さまざまな場所と季節、時間でシャッターチャンスをつかんでおり、高校生の一途な思いが伝わってくる。見る人によって、引きつけられる作品は、その人の人生のひとこまと重なり合うから、異なるはずだが、小欄はトラスト型の米代川鉄橋を走るSLが子どもの頃に見た光景と同じで、しばし佇(たたず)んだ。
 実行委員会の挨拶(あいさつ)文。「私たちは、五能線にふるさとの元気を取り戻す鍵がまだいくつも隠されていると考えます。その一つには、もう一度ハチロクを走らせることもあるでしょう」と。まさしく、と思った。    (八)


 

「天空の不夜城」を待っていた人

(8月6日)

 4日夕、「天空の不夜城」の運行コース、国道101号の能代市西通町の歩道をぶらついていると、去年再会した神奈川県の老紳士が缶チューハイを片手に椅子に座っていた。
 2年前の1月に、懇意にしている能代市の社長から東京ドームで行われる「ふるさと祭り」に「天空の不夜城」の高さ24㍍の「愛季(ちかすえ)」が登場すると知らされ見物に出掛け、その城郭灯籠の威容と絵柄の美しさに目を奪われ、夏の能代の本番をぜひ見てみたいと思いを募らせていたそうだ。
 それが実現。目の前に18㍍の「嘉六(かろく)」、8㍍級で趣のある色合いの能代若2基、その一つがギーギーと音を立てる木車、小振りながら元気のいい小若4基、そして「愛季」が進んでくる。彼は携帯カメラで盛んにシャッターを切っていた。
 小中学生、高校の野球部員らが参加して、その生き生きとした表情が何とも言えぬとも話した。そして「涼しくて気分がいい」と。
 彼の席とは離れた所に家族連れが数人。広げた料理を食べながら、運行を待っていた。関西生まれで東京在住の人は、遠縁を通じて「能代にこんな祭りがある」と知り、3日は秋田市の竿燈を、4日は能代の「天空の不夜城」、5日は青森市の「ねぶた」を見物するツアーを組んだという。3、4日とも秋田市で宿泊。
 関西の勇壮なお祭りは岸和田だんじりなど秋が多いそう。それゆえか「夏は東北の祭り。能代もいいですね」と熱気に浸っていた。
 歩道には、大勢の見物客が座って灯籠の出発を待っていた。家が通りに面している知人は、午後4時半ごろからシートを敷いて、食べたり飲んだりしているファミリーがいたことに驚いていた。
 能代七夕の観光化が叫ばれて50年余。試行錯誤が続き、有志団体「能代ねぶながし会」は昭和40年代後半から長く独自の灯籠を繰り出し、時に役七夕と合同運行するなどさまざまな取り組み、挑戦があった。しかし、遠来の客が場所取りまでして七夕を長く待つ光景が広がることはなかったように思う。
 なお課題はあり、工夫や改善が必要であろう。けれども、徐々に観光につながっていることを感じさせる、6年目であった。(八)