小野喬さんモデルの体操碑

(6月30日)

 1週間前の23日の本紙「読者のひろば」欄に「銅像を移設し多くの人の目に」と見出しの付いた能代市内の70代男性の投書が載った。それについて、「俺も同感だな」と2人の知人が話していた。
 投書は、来年夏に56年ぶりに東京で行われるオリンピックに向けて、前回昭和39年の五輪の選手団主将を務めた能代市出身の小野喬さんをモデルにした富町の旧市民体育館前にある像を多くの人に見てもらえるように移設してはどうか、という内容。
 移設先の1番の候補は大町の市総合体育館の敷地内。来年6月の能代での聖火リレーの出発にふさわしい場所になると提案していた。
 4年前の12月に小欄で、耐震強度不足から使用中止となった市民体育館の思い出を記し、像のことにも触れたので重複するが、像はヘルシンキ、メルボルン、ローマ五輪に出場、メダリストになった鍋谷鐡己(てつお)、小野の両選手を頂点にした「体操能代」の栄光をたたえる「体操碑」で、東京五輪前年の昭和38年8月4日に除幕式が行われている。
 小野さん個人を顕彰したものではないが、像を見れば一目でその頃の小野さんと分かり、モデルとなったらしい。高さ2㍍の大理石の台座に2㍍ブロンズ像が乗っている。製作は当時数々の賞を受賞していた日下(くさか)寛治氏。
 除幕式を友達と見物に行った。近所に住む能代高と能代北高の体操部の男女主将が序幕の綱を引くと、「小野に鉄棒」の着地フォームを思わせる像が現れ、誇らしく思ったことを今でも忘れない。
 除幕式の後は、昭和36年の秋田国体に合わせて造られた市民体育館で、小野さんのほかに、東京五輪の個人金メダリストで秋田市出身の遠藤幸雄さんをはじめ、山下治広、虻川吟子さんらが公開演技をしたそうだが、それを見た覚えはない。
 旧市民体育館は「天空の不夜城」の保管庫になっており、像を見る人はほとんどいない。あの一帯が将来どうなるのかも不明のようだ。
 投書の主の五輪の記憶を残し、能代のスポーツの歴史を伝える体操碑の移設の訴えは傾聴に値する。次の東京五輪を地方から盛り上げる意味でも。(八)


 

また外食チェーン店が閉店へ

(6月26日)

 たまには腰の強い太い麺の讃岐うどんを食べようと、丸亀製麺能代店で「あさりのバラ天ぶっかけうどん冷」の並(490円)を食べ、店を出ようとすると張り紙があった。
 「閉店のお知らせ」だった。7月31日をもって閉店するとあり、長年の愛顧を感謝する内容。瞬時、「外食チェーン店がまたなくなる」と思った。
 丸亀製麺が能代に進出した平成26年4月、小欄に「讃岐進出で能代うどん思う」と題し、次のように書いた。
 「外食産業は独立店舗、大型店テナントと出店のスタイルは異なるものの、能代もまた全国チェーン、県内系列、地元が価格でしのぎを削って、大競争時代に入っている」
 「業態もハンバーガー、ドーナツ、アイスクリーム、ラーメン、ファミリーレストラン、回転寿司(ずし)、コーヒー、焼き肉、牛丼、中華、蕎麦(そば)などがあり、うどんの出店で、地方都市規模ではほぼ出揃(そろ)った感がある」
 ところが、その外食チェーンの撤退が目立つようになった。若い世代やファミリー層の期待を集めて平成24年7月のアクロス能代のいとく内にオープンしたミスター・ドーナツは5年後に閉店した。
 広大な駐車場のあるアクロスでは、ほかに有名アイスクリームのサーティワンを扱った生ジュースとクレープの店、食欲旺盛な子どもたちに焼き肉をたらふく食べさせることができたエルバートも。
 そして今年は2月に入って持ち帰り弁当チェーンの「ほっかほっか亭能代宮ノ前店」、5月にはアクロスの「らあめん花月能代店」、そして7月には丸亀製麺である。
 撤退・閉店の理由はさまざまであろう。綿密な計画の基に出店したものの、予想通りの売り上げに到らず、場合によっては赤字だったのかもしれない。人手不足でスタッフの確保が難しく、維持できないことも要因だろう。
 何よりも、急激な少子高齢化により商圏の人口が減っているうえ、外食のパイの奪い合いが激しく、能代で展望を見いだせないからと推測する。
 外食も栄枯盛衰から逃れられないが、能代でチェーン店が長続きしないことを沈思する。(八)


 

八村選手と能代カップとNBA

(6月22日)

 21日午前9時すぎ、テレビにニュース速報が流れ、フロアの皆が一斉にテロップを見ると、「NBAアメリカプロバスケットボールのドラフト会議で、八村塁(はちむらるい)選手が日本人選手として初めて1巡目で指名(ワシントン・ウィザーズ)を受けた」とあった。すると、記者の1人が「何だかうれしいなあ」とポツリと話した。
 八村選手については、宮城県の明成高校に在学中に能代カップバスケに出場して優勝の原動力となり、パワフルなプレーに驚き、能代工が太刀打ちできなかったことにため息をついた記憶はあるが、どのような経歴かは詳しく知らなかった。
 ドラフト後に一斉に放たれた日本人史上初の快挙報道によれば、富山県出身の21歳で、アフリカのベナン人の父と日本人の母を持ち、奥田中学から明成高校に進学、2013年から3年連続でウインターカップを制覇、卒業後にアメリカに渡ってゴンザガ大学に進み、3年時はエースに飛躍したとのこと。
 記者が「うれしい」と漏らしたのは、彼を能代カップで取材したからだった。自分が彼の大活躍を追い、勇姿を写真に収め、記事にしたことを鮮明に思い出し、感慨深いものがあったのだろう。
 明成は能代カップで平成25年から3連覇。八村選手は1年から試合に出て、注目された。本紙では毎年、出場チームの注目選手を紹介、八村選手は2年から登場、その年は「高校生離れした跳躍力とパワーを駆使してゴール下を支配し、ワンハンドで軽々とダンクを決めて見せる」と記し、本人は「体の疲れもなく、調子は良い。優勝目指して頑張りたい」とコメントしていた。
 3年時の27年は、「高さ、パワー、機動力全てを兼ね備えたチームの中心。超高校級の身体能力でゴール下を支配する」と紹介、本人は「体調はばっちり、優勝のためにどこが相手だろうと負けられない」と語っていた。
 日本人のNBA選手は、能代工高出の田臥勇太(栃木ブレックス)、尽誠学園出の渡辺雄太(メンフィス・グリズリーズ)に次いで3人目。いずれも能代カップでうならせたスターだった。
 3人を能代で見たことは大きな思い出であり、うれしい。(八)


 

交通死亡事故ゼロをさらに

(6月20日)

 能代警察署管内の能代山本で16日に交通事故死亡事故が1年間ゼロを達成した。それを若い記者が上司に報告、記事にするやりとりを聞いていて、驚くとともに、そういう時代になったのかと感慨を強く感じた。
 新聞記者の多くは入社後1年から3年を経て、「警察担当」として事件や事故、火災の取材に駆けずり回る。重大交通事故の情報が入ると、即座に現場に駆け付け写真を撮る一方で、状況を把握、警察への聞き込みを進め、残念にも犠牲者が出ると、家族や親族ら周辺の話を聞き、場合によっては顔写真の提供をお願いする。
 小欄が警察担当だった入社1年目、昭和50年代初頭は、能代山本の人身交通事故は年間409件の発生で、死者15人、傷者550人であった。2年目は322件で死者14人、傷者474人。
 数え切れないだけ現場に駆け付けた記憶がある。悲しみに暮れる人々を取材することは辛(つら)く、何度ためらったことか。それでも事故を報ずることは、防止につながると心していた。交通警察は常に繁忙だった。
 先輩記者は「事故はだいぶ減ってきた」と話していた。彼が警察担当だった昭和46年は実に772件の発生で、27人が死亡、傷者は854人だった。その頃は事故24時間後に亡くなる統計外死亡も多く、この年13人、実際は40人が犠牲になっていた。
 平成30年の能代署管内は125件の発生で、死者2人、傷者は171人。そして昨年6月16日以降、死亡事故は1件もない。能代山本もまた「交通戦争」と呼ばれた昭和40年代から50年代とまさに「隔世の感」である。
 自動車の安全性能が確実に向上してきた、バイパスが整備され地域内交通と通過交通の分離が図られた、安全対策が進んだ、飲酒運転や危険運転が厳罰化されたなどのほか、関係機関・団体のきめ細かな交通安全運動も奏功したと受け止める。 
 とはいえ、全国的には、子どもや高齢者の犠牲が相次いでいる。高齢ドライバーの重大事故も相次いでいる。
 能代市内の小学1年生の母親が「子どもをどう守ればいいの」と聞いてきた。安全を心掛け能代山本は死亡事故ゼロをさらに。(八)


 

山菜の皮、むぐる?たぐる?

(6月15日)

 山菜はネマガリタケ(根曲がり竹=千島笹の若竹)とミズ(ウワバミソウ)が旬。
 どこで採ってきたのかは分からないけれど、立派なネマガリタケを知り合いからお裾分けしてもらった女性が、「皮むぐらず、大変よ」とうれしさ半分でぼやいていた。
 確かに皮むきは辛(つら)い。包丁で切り込みを入れ、はいでいくのだが、細いので案外に面倒、上手な人はリズミカルにサッササッサと先っちょまできれいにむいていく。小欄のように不器用であれば、途中で先端を折ってしまい、呆(あき)れられる。
 それにしても、ネマガリタケは美味(おい)しい。先日は茹で立てに味噌(みそ)だれをかけた料理を供されたが、シャキシャキとし、独特の風味がなんとも言えなかった。地鶏にミズとジュンサイ、それにタケノコの醤油(しょうゆ)仕立ての鍋も格別であった。
 なじみの店に、客がミズを届けて帰っていった。近郊で採ってきたそうで、根元が太くて赤く、見るからに味が良いと分かるものだった。葉はすでに取り除かれており、持ち込んだ人の細やかさに感心した。
 女主人は喜びつつも、「皮たぐらねば」と、小欄の相手もそこそこに、早速皮むきを始めた。下の方をポキリと折って、表皮をスーっと引っ張っていく作業をてきぱきとしていた。次の日には塩昆布和えか、ショウガ風味の漬物として出すだろうか。
 最初の女性は「タケノコの皮をむぐる」、後の女性は「ミズの皮をたぐる」。その言い方の違いに疑問を抱き、県教委の「秋田のことば」で調べると、次のように説明していた。
 「むぐる」は「剥(は)ぐ、裏返す」のことで、「『剥(む)く』と『めくる』との混淆(こんこう)した語か。果物の皮を剥くことや着物・足袋などを裏返しすることに言う」と表記。
 「たぐる」は「剥ぐ、まきあげる」を表し、「着物の裾をたくし上げることや、木の皮・果物の皮を剥くこと、また本のページをめくることなどをいう」とある。
 ほかに「剥ぐ」をいう方言では「もぐる」もあり、「文語の『剥(む)くる』に由来」としている。  
 「むぐる」「たぐる」「もぐる」。山菜の皮を剥く方言に微妙な違いと、使い分けがあることを知った。(八)


 

調査報道のスクープに学ぶ

(6月11日)

 新聞が同業他紙やテレビを出し抜いて重大なニュースを報ずることをスクープ、あるいは特ダネという。記者の感覚の良さに綿密な取材と裏付け、その熱心さに共感した協力者がいて生まれる。
 だが、そうやすやすとできるものではない。むしろ困難がつきまとう。取材相手の「もう少し待ってくれ」はまだしも、ガードが固く全く受け付けなかったり、嘘(うそ)をついたりするからだ。
 それゆえに記者たちが問題意識を持って不正や疑惑、ミスを追い、明らかにする調査報道の重要性が指摘されているところだが、なかなか結実することはない。むしろ消化不良気味だったりが目立つ。
 5日の秋田魁新報の1面トップ記事には驚かされた。
 防衛省は陸上配備型迎撃ミサイルシステムの「イージス・アショア」の配備候補地に秋田市の陸上自衛隊新屋演習場が「東日本で唯一の適地」とした調査報告書を出したが、その調査のデータがずさんであると大々的に報じたのだ。
 報告書では新屋を除く候補地として検討された19カ所は全て配備に適さないとされ、うち9カ所は山がレーダーの妨げとなることを理由に挙げていたが、同紙が独自に調べ、さらに測量業者にも依頼して調査した結果、山を見上げた角度の仰角が実際よりも過大に記されていることが分かったという。
 見出しは「適地調査、データずさん」、解説記事は「『新屋ありき』歴然」と。報告書に疑問を抱いた記者が国有地と山を結んで水平距離、山の高さを基に仰角を計算したことが発端らしい。
 翌日の毎日新聞は後追いして1面トップ、読売は3段、朝日はベタ記事だった。事件をのぞいて秋田の事柄でこれほどのスクープは久しぶり。その後、調査のいいかげんさが浮き彫りになり、地元に不信感を増幅させ、防衛大臣が陳謝、安倍首相が不安や懸念を国会で「真摯(しんし)に受け止める」と語るにまで問題は広がっている。
 魁紙の幹部と先日出会って、つい言葉が出た。「いい記事。こっちまでうれしくなりました」と。彼は「若い人が頑張っています」と応じた。会社の規模は違えども、そうありたいと思った。(八)


 

ちょっと不安の「なべっこ登山」

(6月4日)

 先輩に無理のない登山に参加してみないかと誘われた。「行きます」と二つ返事した。
 届いた案内は、能代市の「鶴形山歩き会」の「十和利山(991㍍)新緑登山」。同会は昨年、紅葉狩り登山で行ったそうで、その折、登山道の脇にネマガリタケが生えていることを確認、美味(おい)しいタケノコ汁を味わおうと企画、それに同道することになった。
 十和利山は十和田湖外輪山の一つで、三角錐(すい)がブナ林に覆われたこんもりした山容が美しいと聞いた。ところが、予定行程表を見ると、登山口は「迷ケ平(まよがたい)」とあった。
 17年前の秋田県警幹部との会話を思い出した。その当時も山菜採りの遭難が多く、多発地点は玉川温泉周辺、鹿角小坂周辺が挙げられていたが、鹿角署長を務めたことのあるその人は「迷ケ平という地名があるぐらいだから、すぐ迷いやすい」と話した。強く印象に残っていたその地に行くとは。
 さらに、迷ケ平は青森県だが、そこに到る前の熊取平と田代平は秋田の鹿角市にあり、そこでは3年前にタケノコをはじめとする山菜採りをクマが襲う事件が相次ぎ、4人が死亡。その記憶がよみがえり、不安がよぎった。
 もっとも、一行は20人で、しかも爆竹や棒、笛に鈴を用意、多勢にクマの方が逃げるかもしれないとも思った。
 登山口に着くと、エゾハルゼミがうるさいほどに鳴いて歓迎、迷ケ平の自然休養林の豊かな自然と爽やかな高原を楽しみながら山頂を目指した。登山道の両側に竹薮(やぶ)が広がり、薮に入ればネマガリタケが顔を出していた。宝庫では1人10本のノルマを案外に簡単に済ますことができた。
 山頂では、先発隊がガスこんろで鍋の準備をしており、遅れて到着後ほどなくして味噌(みそ)仕立てのタケノコ汁が振る舞われたが、取りたては軟らかく出汁(だし)も出て、つい「うまい」。十和田湖を遠望しながらの味は格別だった。
 下山すると、広場でネマガリタケを単独で大量に採ってきた住民と現金で買い付ける業者がやりとりしていた。ぶっとい最高級品。われらはB、C級品と知った。プロは違う。クマは?と聞くと、「ここは出ないの」と話したけれど。(八)