「東日本大震災・原発事故と報道の役割」をテーマにした大会には東北地区のみならず、全国から報道関係者約90人が参加。初日の13日は、盛岡市内の会場で大槌町の碇川豊町 長(60)の講演、宮古市復興推進室の滝澤肇室長(54)から同市の被害状況と復興計画について報告を受けた。翌14日は、大型バス2台に分乗し、まずは宮古市に向かった。沿岸部に向かう車窓から見える山々は少し色づき始めており、宮古湾に注ぐ閉伊川は穏やかに流れていた。 宮古市は、行政面積1260平方㌔と岩手県内で最も広く、基幹産業は水産業。魹ヶ崎は本州最東端の岬として知られる。震災の被害者は死者525人、負傷者33人で、今なお26人が行方不明となっている。建物は全壊3699棟、半壊1006棟。被害総額は1975億5千万円に上る。震災前の3月1日に6万124人(2万4332世帯)だった人口は、10月1日では5万8893人(2万4065人世帯)。7カ月間で1231人も減った。
バスは、同市で最も多い179人の死者を出し、壊滅的な被害を受けた田老地区に入った。17年に宮古市と合併した旧田老町で市内の沿岸北部に位置する。「津波太郎」の異名があるほど古くから津波の被害に遭っており、地区の中心部は「万里の長城」と呼ばれる巨大防潮堤に守られていた。 現地で待っていたのはNPO法人「立ち上がるぞ!宮古市田老」の吉水誠理事(60)らメンバー。到着すると早速、防潮堤に上り、震災当日のことや防潮堤の破損状況などの説明を受けた。遠くに見えるホテルは下の部分の鉄骨がむき出しになっており、4階まで水に浸かったそうだ。 旧田老町で巨大防潮堤の築堤が始まったのは昭和9年。死者・行方不明者911人を出した前年の昭和三陸津波を教訓に築かれ、この時の最大波に合わせて高さを10㍍に設定した。海岸側と陸側に二重に整備された総延長約2・4㌔の国内最大級の堤防は53年に完成。35年のチリ地震津波では町を守り1人の犠牲者も出さず、内外から注目される存在になった。平成15年には「津波防災の町宣言」を行っている。
3月11日の大津波は、海側の堤防の一部を破壊し、10㍍の高さを軽々と乗り越えて地区を飲み込んでいった。今回の視察で三陸海岸には実に多くの防潮堤が築かれているのを目の当たりにした。しかし、大津波はそれをことごとく越えて来た。前日の講演で大槌町の碇川町長は「堤防を過信すべきではない」と警鐘を鳴らした。 吉水さんによると、田老の防潮堤は、内側にある民家の2階に上がっても海の様子を見ることができないほどの高さだ。「防潮堤があるから」との安心感から逃げ遅れた人がいたら…。震災後の報道では「油断があったのではないか」とする地元住民の証言も紹介されていた。津波襲来時に「すごい風が吹いた」「必死に走って逃げた」と振り返ったNPOメンバーの女性は「防潮堤は波が来る時間を遅らせてくれたと思っている」と口にした。 更地と化した街なかを移動すると、そこにはコンクリートの基礎が無数にあり、震災前には多くの住家があったことがうかがえた。また、機能がマヒした漁港も見て回ったが、地盤沈下によって満潮時には漁港は水に浸かってしまうという。近くでは漁業施設の復旧が急ピッチで進められていた。 「明治からの115年で田老は3回も津波で壊滅している」と吉水さん。明治三陸津波(明治29年)では1859人が命を失っている。「感情的にはもうああいう思いをしたくない」と言いながらも、「単純に高台移転というのも」と複雑な心境をのぞかせた。(2011.10.18)
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