取材通し内陸線ファンに

2008.11.30

 寺田知事が、第三セクター・秋田内陸線の存続を最終決断した。内陸線の進む方向が、沿線住民が望んだ形にいよいよ定まったことを喜んだ1人だ。
 内陸線の存廃を巡る取材には、北秋田支局勤務だった3月まで丸4年かかわった。赴任した16年当時の内陸線は乗客、収入とも前年を大きく割り込み、単年度赤字は3億円に迫っていた。三セクでなければとっくにひん死の状態。県も否応なく求められる財政負担はもはや容認ならぬと、15年12月に秋田内陸線沿線地域交通懇話会を立ち上げ、内陸線の在り方について検討を始めた。口には出さずとも当時の県のスタンスは、明らかに「廃止寄り」だった。
 そうした中、16年5月に「秋田内陸縦貫鉄道の存続を考える会」が旧阿仁町(北秋田市阿仁)に誕生し、内陸線の廃止阻止と乗車推進を目指す運動が住民主体で動き始めた。2年後の18年7月には仙北市西木町にも同様の組織が産声を上げ、運動は市境を越えて拡大。さらに19年には、北秋田市内の青年たちが内陸線存続の署名活動に動き、ついには知事への「直訴」に至った。
 知事が内陸線存続を決断したのは、沿線自治体である北秋田市、仙北市との間で方向性の一致を見たからにほかならないが、住民が「絶対に地域に必要なのだ」と意思表示した一連の行動がなければ、この結果はおそらく得られなかっただろう。16年度中にも「結論」を下すはずだった知事が、その判断に4年も費やし、最後は存続へとかじを切ったのもまた、住民の「足」として地域に安心感を与え、ひいては観光資源ともなる鉄道を守ることの方が、赤字だからと遮二無二「切る」ことより大切なのだと、住民が知事に気付かせたからでは、と個人的には思っている。
 存続は決まったが、2年後の22年には赤字を年間2億円にまで減らすことや、施設の維持は自治体、運営は会社が行う「公営民営化」の実現、さらには8億円以上の巨額を投じる安全対策工事の実施がその先の存続への大前提で、むしろこれからが正念場と言える。
 ただ、内陸線を活用しての地域活性化をテーマに据えたシンポジウムや勉強会などは昨年以降盛んで、県議会内でも会派を超えて活用策が検討されている。今後も変わらない地域、各方面のサポートに期待している。
 振り返ると、北秋田での4年間は内陸線に常に客観的であろうとしていたが、今や一ファンとして応援している。なかなか機会はないけれど、来年ぐらいには家族を連れて「乗車協力」したいものだ。(貢)
 


 プロは厳しいけれど…加藤HCの解任

2008.11.12

 JBL(日本バスケットボールリーグ)のリンク栃木は10日、加藤三彦ヘッドコーチ(HC)を解任した。解任はチームにとってもギリギリの選択であったことは想像に難くない。この結果からは、月並みではあるが「プロはやはり厳しい」という感想を抱く。と同時に、まったくの新天地へと飛び込んできた新人ヘッドコーチへの対応としては、あまりにも酷ではないか?と言ったら“身びいき”に過ぎるだろうか。
 加藤HCを解任した理由についてチームは、「選手との信頼関係」に言及した。それが何を意味するのか推測するしかない。ただ、加藤氏が選手との信頼関係の構築やコミュニケーションに苦慮していたなら、球団としてサポートできなかったのか?「成績不振が理由ではない」とするなら、なおさらそうした思いが募る。
 加藤氏本人は、その理由を「自らの力量不足」とするのかもしれないし、こうしたリスクは織り込み済みでもあっただろう。ただ、その加藤氏は今年、勇気を振り絞って単身、コーチとしてJBLに挑戦し始めた一人。加藤氏のキャリアを考えた場合、せめて人間関係でつまずくことがないようにサポートし、1年は続けさせるのが、新人ヘッドコーチを迎え入れた側の最低限の責務ではなかっただろうかと思わずにはいられない。
 プロの世界は厳しいのは当然のことだろう。ただ、成績以前にチーム内での人間関係を理由に最高指導者人事が行われたのは(人間関係はどんな組織にとっても重要ファクターではあるが)、しかもそれがシーズン序盤であるという現実は、個人としても組織としても、まだまだ成熟途上にあったのだということか。
 加藤氏は今後、どうするのか。チームに残るかどうかも含め、まだ分かっていないが、こうした形で解任されたという事実は、加藤氏にとって大きなハンディになる。ただ、たとえそうであっても、加藤氏にはハンディを踏み台にするしたたかさがあること、そして、この苦い結果が飛躍するための試練であることを祈りたい。 (泰)
 


防犯教室の講師は―トロンボ−ン警官

2008.10.20

 能代市内で地域住民を対象に開かれた防犯教室を取材したときのこと。そこで「トロンボーン警察官」と出会った。そして、地域の安全を願い、奏でられるやわらかな音色を聴いた。
 高齢者を中心に約30人の住民が安座する地域センター内の一室の隅には、なぜか譜面台とトロンボーンが置かれていた。
 講師を務めた能代署東能代駐在所の武内公成所長(47)が、高齢者を狙った振り込め詐欺の犯行手口などについて説いていく。防犯教室は、こうして始まった。 
 一通り話し終えると、「ちょっとした特技がありまして」と言い、武内所長が譜面台の前に立ち、トロンボーンを手に取った。
 「赤とんぼ」「故郷」「かあさんの歌」――。やさしいメロディーが会場を包み込む。歌詞を口にし、手拍子を打つ参加者がいた。
 曲の演奏を終えると、武内所長は再び、交通安全や盗難被害などについて語り始め、楽器を演奏する時とは異なる表情で注意を喚起した。出動服姿の警察官の熱心な話を、参加者たちは胸に刻み込むように聞き入っていた。
 中高、大学では吹奏楽部に所属していたほか、警察音楽隊で活動した経験もあり、武内所長のトロンボーンの腕前は相当なもの。
 「交番や駐在所員だからこそ、住民の皆さんとより深く接することができる。親しみを持ってもらいたい。堅苦しい雰囲気で学ぶより、印象に残る教室が良いでしょ。その上でのトロンボーンですよ」。
 武内所長は機会あるごとにミニパトに演奏道具一式を積み、会場に向かう。先月の「警察安全相談の日」は駅の待合室で吹いた。寿大学で演奏したこともある。
 統計データや犯罪事例を羅列するだけではない武内所長の防犯教室。住民、警察官が互いに触れ合い、共に信頼関係を築いていくような環境に見えるのは、武内所長が奏でるトロンボーンに、住民の歌声が重なるからだろうか。
 互いに手を取り合い、声を掛け合う地域の姿を願う武内所長。教室の終わりに「皆さんで一緒に安心安全な街をつくりましょう」と呼び掛けた。
 全国地域安全運動(〜20日)に関連した活動が同署管内でも盛んに行われている。住民一人ひとりの防犯に対する普段からの心構えが大切なのは、もちろんのことだが、互いに地域の安全を守ろうとする意識も欠かせない。
 トロンボーン警察官と住民たちによる一曲一曲は、まさに地域の安全を切に願うハーモニーのように聞こえた。(友)


武内所長は言う。「住民同士が声を掛け合い、結び付くことが防犯につながる」


言葉は「生き物」だが…

2008.10.1

 先日テレビを見ていたら、「『荒らげる』の正しい読みは?」と問うクイズがあった。すぐに「あらげる」だと思ったが、実は間違いで、正しくは「あららげる」。ただ、最近では誤読の「あらげる」の方が“市民権”を得ている感があり、通常の会話で「あららげる」というのを聞いたことがない。事実、辞書の中には「誤用」との注釈付きで「あらげる」を併記しているものもあるようだ。
 それとよく似ているのが「言質」。正しい読みは「げんち」だが、「げんしち」や「げんしつ」などと発音する人が多い。間違った読みをする人が多数となり、それが長年続くと、そっちの方が普通になってしまうという好例だ。まったく言葉は生き物である。
 話は変わり、先だって開かれた能代市議会9月定例会の各常任委員会。総務企画委員会で、この言葉の問題に突っ込んだ議論があった。予算説明書の中の「部落」という単語が差別的ではないかという。いわゆる「同和問題」に配慮した発言だった。
 しかし、そもそも「部落」という言葉には差別的な意味はない。ある辞書を引くと「比較的少数の民家が集まっている地区。共同体としてまとまりをもった地縁団体で、村の単位となる」とあり、いわゆる「集落」のことである。しかし、それが「被差別部落」を連想させるということで、昨今では使用を避ける傾向にあり、報道現場でもほとんど使われなくなった。
 個人的なことになるが、私は四国の片田舎に生まれ育った。今はどうか知らないが、当時は「同和教育」が非常に盛んで、私自身も小学校から差別の歴史を調べるグループ研究をしたり、それを発表したりしたものだ。直接見聞きをしたことはないが、部落差別の実態も身近にあったように思う。だが、回りの大人も子どもも「部落」という言葉に差別的な意味はないと知っており(というより、そもそも「差別的な意味があるかないか」という感覚さえなく)、普通に使用していた。それが今も変わらないことは、たまに帰省すれば分かる。
 言葉は生き物だから時代とともに読みや意味やニュアンスが変化するのは仕方ないが、誤った認識で一つの単語が消えていくことは、稚拙ながら文章を書く者として寂しい。言葉をなくせば実体も消えると錯覚するのは、私を含め日本人の悪しき“信仰”のようなものだ。(戸)


サザンの夏、再び帰って!

2008.9.1

 秋風が吹き始め、朝から晩まで北京五輪一色だったこの夏も、もうすぐ終わろうとしている。行く夏を惜しむ気持ちは毎年のように胸をよぎるが、今年は加えて「寂しさ」にも襲われている。
 冒頭からしんみりモードで申し訳ないが、先日、横浜市・日産スタジアムで開催されたサザンオールスターズの結成30周年記念ライブ「真夏の大感謝祭」に夏休みを利用して出掛けた。ご存知の方も多いと思うが、サザンは今年を一つの節目に、来年以降無期限の活動休止を表明。8月16、17、23、24の4日間にわたる活動休止直前ライブは、事実上のラストステージとの受け止め方もされ、約30万枚のチケットが即日完売した、そのライブだ。
 23日の公演を見た。会場には能代市の人口をしのぐ7万人余の大観衆。詳細はとても書き切れないが、長年のファンには涙ちょちょ切れ、感動モノだった。約50分間に渡った初期サザンの名曲メドレー、「いとしのエリー」「真夏の果実」「TSUNAMI」の国民なら誰でも知ってる必殺バラード3連発、アンコールでさく裂したデビュー曲「勝手にシンドバッド」などなど。開演前からの小雨は最後まで降り続いたが、私が聴きたいと思った曲はすべて聴け、大満足だった。
 サザンは1986年以降、ソロ活動のインターバルをたびたび挟みながら、実はこれまでも「休み休み」続いてきたバンドだ。この先も、そういうことはあるのだろうと、ファンは皆承知。だから、5月に突然、活動休止が発表された時はすごく違和感を覚えたし、「あえて宣言しなくても…」とも思った。が、この日のライブでサザンのフロントマン・桑田佳祐から発せられた「本音」に、その真相が詰まっていた。
 「この夏が終わってしまうのは寂しいけれど、やっと『終われる』のかなという気持ちも、私の中で相半ばしています」
 桑田は苦悩していたのだ。学生時代のノリそのままにこの世に出たサザンは、いつしか「国民的バンド」とも形容され、出す曲出す曲にヒットが求められた。われわれファンも、当たり前のようにそれを期待した。楽曲のほぼすべてを生み出す桑田にのし掛かっていたプレッシャーは、どれほどだったか。例の活動休止宣言は、それから解放される唯一の方法だったのだ。
 「自信を持って聴いていただける作品ができたら、必ず帰ってきます」。この日サザンは、僕らに何度も約束した。ファンにとって彼らの新曲をしばらく聴けないのは本当につらく、寂しい。でも何年か先には、夏に似合うような「名曲」に、必ず会える。
 あと何度目かのその夏を、今は楽しみに待つことにしよう。(貢)


美術館建設の原点見た

2008.8.23

 なんで、この街に、こんな美術館があるんだ?。女性誌の美術館特集を読んで浮かんだ素朴な疑問から青森県十和田市にある同市現代美術館に足を運んだ。
 十和田市は3年前に旧十和田市と旧十和田湖町が合併、人口約6万8千人と能代市よりはやや多い。5千円札に肖像画が印刷されている農学博士の新渡戸稲造の祖父が1859年に開拓し、稲造の父が都市計画を行った歴史的には「若いまち」という。近年は郊外型店舗の進出で中心商業地のデパート2店が閉店に追い込まれるなど、地方都市のどこもかしこも似たような状況の中、空洞化が進む中心市街地活性化策の一環で「官庁街通り」の一角に美術館が今春オープンした。
 白を基調色とした施設は個々の展示室を独立させ、日本、韓国、アメリカ、ドイツなど国内外の現代作家21人のオブジェが展示室や中庭、屋上に並ぶ。入場料は常設展と企画展合わせ大人800円(高校生以下無料)。入って最初に遭遇する高さ4メートルの巨大なおばあさんのリアルな立像に圧倒された。
 とかく、地方都市の美術館は、郷土出身の作家にちなんだものが目立つが、そんなローカル色は微塵(みじん)もない。現代作家にこだわったのは、生きている作家ならば、市民と交流する機会を持てるかもしれないとのコンセプトもあるそうだ。オープニングの企画展がオノ・ヨーコ。わが街・能代じゃ、逆立ちしてもそんな考えは出てこないだろうな、と発想の大胆さ、思いっ切りの良さに思わず拍手を送った。ふってわいたような現代アートの館は若者たちでごったがえしていた。
 美術館を含め周辺一帯を「アートの街」に整備する費用は総額約27億円。六ケ所村核燃リサイクル施設と東通原発の「電源三法」交付金を充てる。財源は「核のマネー」だった。財政がひっ迫する中、市議会には、学校や下水道など住民生活に直結するインフラ整備を促進すべきじゃないかと反発もあるそうだ。常設の展示物が人々にあきられたら、なんとするんだという指摘もある。反対派の市議は「第2の夕張」を懸念する。地方の深刻さを肌身に感じるだけに、その気持ちはわからないではない。

 ただ、それでも、やはりすごいな、と思う。少なくとも、この街には芸術を許容する度量があり、人の感性をとらえるアイデアがある。美術館の建つ官庁街通りは、ちょうど能代の畠町通りのように広い道路だが、車道は2車線で、両側の歩道がやたらに広く、人工の小川が流れ、オブジェが点在する。車よりも歩く人、人の集いを優先する道路整備の実際例を初めて目にした。美術館建設の原点を見たような気がした。(伊)


100円商店街に「踏み出す勇気」

2008.7.15

 消費者流出で衰退が進む能代市内の商店街にあって中和大通り商店会の「100円商店街」は、守勢に立たされていた関係者に大きな手応えとなった。品数と量的な問題で、限定商品の販売は短時間で終わるなど課題は残るが、通りに人があふれる光景は、関係者に「一歩を踏み出す勇気」の大切さを感じさせた。
 中和通りは、大型店(旧サティ)を核に商店街を形成。が、大型店が閉店すると通過型商店街に拍車が掛かった。クシの歯が抜けるようにシャッターを閉ざす店も増えてきた。「このままでは多種多様な商品をそろえる商店街の体裁もなくなる。今のうちに何とかしないと」と関係者が立ち上がった。 
 それが今回の100円商店街の取り組み。この中では100円商品が主役みたいだが、実はこれを呼び水に店内の商品を消費者に見てもらうのが本当の狙い。諸物価高騰の中で、ワンコインの魅力も増す。関係者は、「にぎわいを取り戻す願い」を100円に託した。
 その結果小川商会から出戸交差点に至る約500メートルの歩道は午前中、歩行者ばかりでなく自転車や車いす、ベビーカー利用者が切れ間なく続いた。左右を見やるドライバーも目立つなど関係者の願いは見事に実った。
 県内で100円商店街は、湯沢市で行われて以来2例目だが、湯沢市はあとが続かなかった。関係者は、今回の反省を受けて品ぞろいや品数、開催日などさまざまな課題を協議して次回につなげたいという。市内の他の商店街にとっても大きな元気となる“試金石”となってほしい。(武)


リスク予測とごみ袋

2008.7.3

 「いらいらする」「むかつく」「あきれる」「怒る」――役所の窓口に行って、そのスイッチが入るのは、どのようなときであろうか。
 能代市で1日から新旧の指定ごみ袋の交換が始まった。午前9時すぎ、窓口の一つ・第4庁舎の階段を上った。環境衛生課能代分室前の廊下は「わや」であった。もともと広いスペースではない。そこに旧指定袋の枚数を数える人、受け付け表に書き込む人、順番待ちの行列を作る人、「どうすればいいの?」と迷う人が「ごじゃめいで」いた。
 分室内はというと、旧指定袋の枚数を確認し、交換する新指定袋の可燃・不燃、大・中・小の別を聞きながら、旧袋の価格相当の新袋に換算し、枚数を数え、手渡す。「等価交換」と書けば4文字だが、結構手間のかかる作業にてんやわんや。だが、廊下にいると分室内の様子は見えない。廊下に手順を説明する張り紙はあった。が、存在感は…果たしてアレを読んだ人はいただろうか。
 市民にとって「もう使えない」「窓口に行かなければならない」ということ自体がストレス。ごみ袋1枚は軽くても、枚数が多ければ結構な重さになる。手すりを頼りに階段を上る人もいる。そこに「ごじゃめぎ」がお迎えする。果たして「いらいら」スイッチは入るのであった。
 さて。ドッと訪れた市民の人数、持ち込む枚数の多さは想定外だったかもしれないが、「いらいら」を防ぐ方法、最小限に抑える方法はなかっただろうか。
 例えば、市の広報に受け付け表を印刷し事前に書いてきてもらう。現場に「用紙はここ」「書く場所はそちら」「記入済みの人はこっち」とでっかい矢印付きで張り出して、動線を作り、見えるようにする。素人考えかもしれないが、何か手だてがあったのではないか…。
 ストレスを抱えた側に立ち、「いらいら」の種になりそうなリスクを予測し事前に備える、その場で対応する力が求められるのは、「ごみ袋の交換」だけではない。ふと思う。他課は何らかのノウハウを持っていたのではないか。他課は対岸の火事とするか、他山の石とするか。災害の時はどうであろうか、と。(祐)
 


44年前の聖火リレー

2008.4.28

  北京五輪の聖火リレーが26日、長野市で行われた。チベット問題で抗議と歓迎が交錯し、発煙筒が投げ込まれるなどトラブルもあったが、物々しい厳戒態勢の中で予定通り終了した。テレビ越しとはいえ、ただならぬ様子に複雑な心境で見入る人も多かったのではないだろうか。
 44年前、東京五輪の聖火が大館市の矢立峠で青森県から本県に受け継がれた時、ボーイスカウト秋田連盟十和田地区26団のリーダーとして聖火を灯したランプを護衛した能代市赤沼の和田祐光さん(83)もその1人だ。
 鹿角市毛馬内出身の和田さんは、恩師の勧めでボーイスカウトに入団。昭和39年9月23日の昼すぎ、矢立峠で聖火の引き継ぎに立ち会った。パトカーを先導に、トーチをかざした聖火ランナー、そして十数人の伴走ランナー、さらに万が一に備えて聖火ランプを護衛した和田さんらが自衛隊のジープに分乗して後に続いた。
 宿泊地の大館市民体育館までの沿道は、聖火を一目見ようと大群衆で埋まり、東京五輪と日の丸の小旗が右に左に揺れ動き、その時の歓迎と熱狂は今でも脳裏に焼き付いている。同市民体育館で、仲間とともに聖火ランプを寝ずの番で見持った思い出もある。「それが今、こんな形で目にするとは…」と表情を曇らせる。
 聖火リレーは、昭和11年(1936)のベルリン五輪で最初に行われた。国威発揚と全世界へのアピールを狙ったナチスドイツ。五輪は、世界平和と融和を目指すスポーツの祭典の一方で、愛国ナショナリズムを呼び覚まし、意図的な国家イベントや商業主義などに利用されやすいもろさがある。そうした歴史を重ねたところに今の五輪があるとすれば、今回の“騒ぎ”は、これまで五輪が抱えてきた問題が表面化したとも受け止められる。
 東京五輪は日本の戦後復興と経済発展がその底辺を支えた。北京五輪は、目まぐるしい経済発展を遂げる中国の威信をかけたイベント。共産主義の中に自由経済を取り入れたとはいえ“国家管理”は免れない。大国の意地は通用してもナショナリズムの先には世界の中での孤立化も見え隠れする。
 和田さんは「五輪の“融合”“自由”がどこまで中国大陸に浸透、定着するか、北京五輪を見守りたい」と語る。(武)


本県に引き継がれた東京五輪の聖火のランプを持つ和田さん(大館市民体育館で)


花見ウオークで思った

2008.4.27

 満開の桜にポカポカ陽気と、絶好の観桜日和となった20日の日曜日、能代市内の花見ウオーキングに出掛けた。日ごろ散歩とは無縁で、旧能代産廃の取材で処分場内をぐるぐる歩いたのが、今年の1日当たりの最長距離だろうというメタボが、2時間も歩き続けてしまった。
 もちろん自主的にではない。市役所観光振興課職員らの私的さくら紀行に混じってのこと。能代の春らんまんを歩きながら満喫する来春向けイベントの検討にお邪魔させてもらった。旧渟二小を発着点にして、能代工高―能代公園―市営陸上競技場―風の松原―大正町公園―出戸町公園―西通町の私邸―柳町の私有地の桜をめでるコースを巡った。
 能代公園の噴水前広場は、宴の場所取りでブルーシートが所狭しと敷かれ、午後からは大勢の人出でにぎわった。今も昔も宴のメッカは能代公園に違いないのだろうが、露店が公園にずらりと並んだ子どものころの印象が強く、隔世の光景に、花が散る前に世の移ろい、あわれを感じてしまった。重病の桜がかなり伐採されたことも関係しているのかもしれない。広場のにぎわいに目を細めていた職員が翌日、観桜客が残していった大量のごみの後片づけに奔走するとは、この時は思いもしないことだった。
 歩きながら改めて思うのは、なんとまあ街の至る所に桜があるのやらということだった。学校にも街区公園にも必ずある。昔は、各民家の庭にもあったそうだが、人々の桜好きは相当なもの。西通町の私邸の枝垂れ桜は、すでに散り始めていたのが残念だったが、柳町の私有地は、駐車場のアスファルトから伸びた重厚な木が見事な風情を醸し出していた。
 北東北の場合、桜観光は角館、弘前の1人勝ち状態だそうで、観桜客は県内、県外へと足を延ばす。しかし、そればかりが花見の楽しみ方ではない。地元の街並みに馴染んだ桜を楽しみ、地元産の花見団子と桜茶で一服するのもなかなか一興で、観光の原点はそんなところにあるのかもしれない。街角の桜マップの作成も検討課題にしているそうだ。
 能代の春を手づかみしようという花見ウオーキング。来春は、ぜひ実現してもらいたい。(伊)


能代山本の円空と瀬織津姫

2008.4.7

 昨年、江戸前期の僧、円空(1632〜1695年)の取材で本社を訪れた岩手県遠野市の出版社代表、福住展人さん(作者・菊池展明)が書き上げた「円空と瀬織津姫」・上巻(風琳堂出版)が送られてきた。その中には能代市の八幡神社や八峰町の白瀑神社、能代市の龍泉寺所蔵の円空仏も掲載されている。
 円空は、今から370年前の寛永9年に美濃国(岐阜県)に生まれ生涯に12万体の仏を彫ることを自らに課して各地を遍歴した。福住さんは、「死期を悟るや(現在の岐阜県関市池尻で)土中入定をもって(納得の上で)自らの生涯を締めくくった。円空とは何者なのか。何を考えていたのか」との疑問から円空が生涯にわたり崇敬した水神「瀬織津姫」に答えを求めた。
 瀬織津姫は、古事記(712年)や日本書紀(720年)の前、記紀神話の創作の前に神名が見られる「古い」神。福住さんは「円空にとって瀬織津姫は、初期修行の山・高賀山の地主神・滝神で、自らの氏神だった可能性がある」という。しかし、神宮祭祀の絶対化が国家的に行われるたびに歴史の闇に追いやられた。円空はこの祭祀消去への思い入れがことのほか深く、これが全国の『地神供養』の発願となって彫像行脚の旅に出たと推測する。
 能代山本では福住さんが、本紙発行の「古里の信仰」(昭和62年)を手掛かりに取材。能代市八幡神社境内の池の中の島にある住吉水門龍神社(神社本庁への登録社名)の祭神が瀬織津姫だと知る。また、「円空の彫像は神でもあり仏でもある両義性を持ったものとして自ら思うところの『神』と対話するように彫られた」とし、龍泉寺所蔵の円空仏を含む十一面観音像は、「左手に水瓶を持つ観音、つまり水神の化身をほうふつとさせる」という。八峰町の白瀑神社では、不動尊と滝神について紹介。各地で水・滝の精霊神として瀬織津姫が祭られていることを知る。
 福住さんが巻末で「本書は『円空仏』を訪ねる紀行集というよりも円空彫像思想を解き明かす、もうひとつの旅の書」と記す。女神・瀬織津姫を通して謎の多い円空の生涯に迫る歴史物語として興味深い内容に仕上がっている。
 問い合わせは岩手県遠野市早瀬町2丁目2の25の102 風琳堂(h0198・62・0871)。 (武)


能代の社寺も掲載された「円空と瀬織津姫」


堂々たる行革委への反発

2008.3.9

 7日の三種町議会一般質問では、先に答申を行った町行財政改革推進検討委員会での議論の在り方で厳しい質問が飛んだ。
 同検討委は1月30日に設置。町の財政健全化に向けた具体的な方策立案に向け、9人の委員が歯に衣着せぬ議論を展開。町職員の50人削減や議員報酬等の総額1千万円減額など、踏み込んだ答申を行った。意見交換の中では、「議員定数は15程度でいいのでは」「ぶらぶらしている職員を抱えているのはよくない」などという委員の声もあった。
 これに対し、一般質問ではある議員が「検討委は町長の私的諮問機関。その中で議員報酬や定数を議論することは、条例に基づいた報酬等審議会などをないがしろにしたものであり、議会の議決権をも軽視する重大な問題だ」「町職員の努力で3町合併が成就したのであり、私は職員に感謝している。ぶらぶらしているとはあまりにひどい発言であり、(昨今の悪しき風潮である)公務員攻撃そのものだ」と詰め寄った。
 さらに、新入学児童へのランドセル寄贈の取りやめや国保税引き上げの意向、放課後児童クラブの統合など予算や条例改正を伴う計画を先に同検討委に説明していたことを「議会軽視だ」と指摘。委員の任命権者である佐藤町長の見解をただした。
 これに対し、町長は「個人の自由な立場から提言をいただこうとしたのであり、その答申に拘束されるものではない。委員会の中の発言でまずい部分があったのは事実のようで、私からおわびしたい。ただ、私たちが誘導したものではない。(町民の中には)そういう声もあるのだという程度でいいのではないか」と煙に巻いた。
 検討委では全5回の会議をすべて公開で行い、本紙でもその度に報道してきた。だからこそ、議会も町民も突っ込んだ協議内容を知ることができたのであり、委員の手厳しい発言自体に賛否両論あるにせよ、風通しのよいオープンな委員会運営と、自らに返ってくる反発や批判を恐れず堂々と議論した委員の姿には敬意を表したい。
 町議会にも、いよいよ定数・報酬問題等の特別委が設置される。ぜひ「秘密会」などにせず、懐の広いところを見せてほしい。(戸)


役割、改めて問われる

2008.2.29

 昨年暮れ以来難航していた能代地域活性化協議会の会長選任問題が21日、塚本真木夫新会長の選出で一件落着した。が、人選とおなごりフェスティバル継続課題と裏腹に問われたのは、地域経済の低迷が久しい地域にあって官民一体の組織、活性化協の役割だった。
 昨年12月の活性化協総会で、それまで歴代の能代商議所会頭が代々務めていた会長を広幡信悦会頭が固辞した。会頭就任間もなく「商議所業務への専任」などが理由と言われるが、その後幹事長を中心に再要請。その中では、「おなごりフェスイコール活性化協ではなく、催しは実行委員会が担当、活性化協は一つのイベントではなくさまざまな地域活性化事業に取り組むべき」と提起された。
 21日の活性化協合同常任幹事会は、活性化協本来の役割を取り込みながらおなごりフェスの継続と新たな活性化への取り組みをスタートさせるべく塚本新会長体制を発足させた。塚本新会長は「ここ2年で組織改革、活性化への足がかりをつかむのは難しいが、なんとか方向づけを図りたい」とあいさつした。
 事業計画に活性化協の新規事業が盛り込まれた。関係者は、中心市街地を含む地域活性化のまちづくりやボランティア活動の促進を支援すると説明したが、日時と具体的内容は今後の検討課題だ。
 しかし、能代市の中心市街地は、核家族と少子高齢化や、商店街の地盤沈下などの影響による空洞化が進む。大都市圏の景気回復の一方で、地域経済も低迷して久しく、衰退は時を待たない。合同会議に出席した常任幹事からは「通年にわたる活性化事業を考えてほしい」「インパクトのある活性化策を」との切実な提言があった。活性化協の役割が改めて問われている。(武)


ふとバイオマス活用に?

2008.2.4

 木の成分を利用したバイオエタノールの生産に関する説明を聞き、「とうか」=「糖化」と浮かばない。そんな勉強不足のまま秋田バイオマス研修会の取材に行ってしまい、聞き取るのに必死な4時間弱を終えたら、どこか釈然としない気持ちが残った。「何のためのバイオマス利活用なんだっけ」。
 パンフレットを丸写しすると、「バイオマスの炭素は、もともと大気中のCO2を植物が光合成により固定したものなので、燃焼等によりCO2が発生しても、実質的に大気中のCO2を増加させません」。バイオマス利用の主目的は地球温暖化防止。
 研修会では、食料と競合しない原料の確保、コストダウンと切り口は違えど、複数の登壇者が成長の早い草木、エタノール生産に向いた樹種など新たなバイオマス生産を提言、積極的取り組みを促した。
 ぐんぐん成長する木を植え、切って、植えて、切って、植える。育ち盛りの木はがんがん光合成しCO2を吸収する。平らで道路がある所を植える場所に選べば搬出も容易で、近くにバイオエタノール生産工場があれば原料輸送中のCO2発生も、コストも抑制できる。計画的で合理的で効率的な木の「畑」が浮かんだ。
 市バイオマス構想策定委員会でも木の有効活用の話題はひとしきりあったが、ターゲットとする「木」は違った。間伐はしたけれど、ふもとに下ろすにはお金がかかるし、林道にも遠いので山に置いたままになっているような林地残材を有効活用したい。未利用を利用へ、山の再生へ。いかに山から引っ張り出すか、どうやって収集するかが、直面する現実。
 木がエタノールの原料としてひっぱりだこになれば、間伐材もイイお値段がつくかもしれない。山の荒廃も止められるかもしれないが、「畑」で育った木にはコスト負けするだろう。前述のパンフレットは農山漁村の活性化もメリットに挙げ、「『エネルギーや素材の供給』という新たな役割が期待されます」とうたう。「畑」で木はすくすく育ち、山は荒れている状態って、奇妙な光景だろうなあ。それはそれ、これはこれ、なのだろうか。
 エアコン利かせて気ままなドライブもバイオエタノールならCO2は差し引きゼロ。「地球にやさしい」消費で満たされる人の欲。それをかなえる「地球にやさしい」生産。その消費と生産の循環が生む次の欲は、おそらく「もっと」だろう。もっとやさしく、もっと便利に、もっと安く、もっと楽に、もっとたくさん、もっと大きく、もっともうけを――。
 「地球にやさしい」バイオマス利用とは。生産とは。消費とは。うーん…。バイオエタノールに限った疑問ではないのですが、山よ木よ、どう思う?(祐)


南の島で「ふるさと」思う

2008.1.23

 サー沖縄よいとこ 一度はおいで サーユイユイ

 沖縄民謡に誘われるように、冬の北国から飛び出し、南の島へと出掛けた。行き先は、これまで足を踏み入れたことのない石垣島、竹富島、西表島の離島3島。限られた休日の中での2泊3日の旅だ。
 澄み切った空、道端に咲くハイビスカスなどの南国の花々、星砂の浜。どこか沖縄のイメージは明るく、開放感が漂っている。街中や観光地を巡りながら、ふるさと秋田と対比する自分がいた。
 旅行での楽しみの一つに、食べ歩き、飲み歩きがある。秋田では、あまり口にすることのない島料理や泡盛を口にして、少々おしゃべりになり、居酒屋の店員との会話を楽しんだ。
 その店員は、北海道出身の女性で、2年前ほど前に移住してきたという。その女性がこう話した。「島の人は内地(本州)へ働きに出る人も多いが、私みたいにこの島に魅せられて住み着く人も多い」。
 その土地が持つ魅力――。確かに沖縄は、ダイビングやサーフィンなど海洋レジャーを愛する人にとって格好の場。ここ数年の離島ブームも手伝って、人口が増えている理由に納得はできる。
 しかし、沖縄で生まれ育った本来の島人が外に流出しているという。その点においては、本県と共通する現象が起きている。なぜ島人が流出するのか。その要因の一つには、都市圏と地方の経済格差から生じる景況の差、雇用の場の少なさがある。若者の足は潤いや働き口を求めて、自然と都市へと向いている。
 同じように人口流出に悩む本県ではこれに加えて、少子高齢化や過疎化、福祉問題など、本腰を入れて対策を講じていかなければならない問題が山積している。地方の「いま」は決して、明るいとは言えない。
 しかし、ここで暮らす者、このまちを離れた人、誰もが同じことを考えているはずだ。「ふるさとには、ずっと元気でいてほしい」と――。どうすれば活力あるまちになるか、いつまでも地域が笑っていられるか。
 南の島を訪れ、改めてふるさとの魅力、良さについて考えてみた私だった。(友)


釜谷の「なまはげ」取材して

2008.1.21

 酒に酔った勢いで女性風呂に乱入したとして、なまはげが全国を騒がせている。問題を起こしたのは年末年始に帰省中の若者だったというが、決して許される行為ではない。メンバーのいう「伝統行事を絶やしてはいけないという使命感」は若者に受け継がれなかったのだろうか。
 「ウオー!ウオー!」――。暗闇に響く重々しい声。「ガンガンガン」と缶を叩く音が恐怖を増強させる。子どもたちは姿を見る前からぶるぶると震え、両親や祖父母にしっかりとしがみつき、窓の外を恐る恐る見詰める。「来たよ!」と嬉しそうな大人たち。やってきたなまはげは迫力満点の風貌で、子どもたちは体を強ばらせて必死に「いい子にします」と約束。最後は家族みんなではらい清めてもらい、新年の無病息災を願う。
 昨年の大みそか、三種町釜谷地区で取材したなまはげの様子だ。釜谷分館の人たちがふんするなまはげは、約30年前から続く恒例の行事。当初は地区内150軒以上の家を回ったものだったが、生活様式の変化などの理由から今では50軒ほどになっている。
 「正月行事をやろう」と意気込み、始めた時には血気盛んな青年だった人たちも今では50〜60代。後継者となる若者がいないため「いつまで続けられるか」という状態だという。
 ある家の両親は「なまはげの効き目はすごい。面だけでも怖がる」と話し、「子どもたちにとってすごくいいこと」と喜んだ。また「あまり怖くないなまはげもいるんですよ」とにっこり。
 とはいえ、後継者がいなければ続けられない。見た目は恐ろしいが、地域に活気と笑顔をもたらすなまはげ。この火を絶やしてほしくないと思った。(宏)


いつの時代も錬金術

2008.1.9

 呪文を唱え、あるいは薬品を調合し金を生み出すという「錬金術」。現代では錬金術・師と言えば徒労、あるいは愚か者の代名詞でもあろうが、今でもちゃっかり生き抜いている。証人ならいる。それも身近に。
 「五つの星が列なる時」(マイケル・ホワイト著・早川書房)。秋に購入した本を、この正月休みにようやく読むことができた。物語は現代、英国の「錬金術師」たちが、そのために殺人まで犯す――というサスペンス。万有引力で有名なアイザック・ニュートンも錬金術に引きつけられた者として登場するなど、歴史ミステリーの要素も持たせた一作でもある。巻末には錬金術の歴史、ニュートンと錬金術の関係などの史実、そして当時の学術界の巨人たちでさえ錬金術や神秘主義に傾倒していたことを解説しており、なかなか興味深い。
 卑金属を黄金に変える――。実に魅惑的である。古代、中世とかつては知識人と言われる人ほど錬金術に取りつかれたのも無理はない。卓越した知識と技術、情熱、果ては高潔な人格を備えてこそ初めて可能だと信じられていたのだから。
 読後、白昼夢を追い続けたおかしくもあり悲しくもある彼らの姿と当時を夢想してみたのだが、いや、待て。昔に思いをはせずとも、西暦2008年の今日、それもこの能代山本にだって錬金術師はいるではないか。
 そう、宝くじ売り場に始まり、パチンコ屋、場外馬券発売所――、あちこちに存在する。
 としたら、自分自身も錬金術師だ。その証拠にしょっちゅうロト6を買う。最高で2億円、キャリーオーバーがあれば4億円というアレである。もちろん当たった試しはないが、「鉛、鉄が金に変わる」と信じた錬金術師たちと同様に、いつか200円が2億円に変わると信じているのだから、太古の錬金術師を笑えない。
 そうしてみると錬金術とは決して眉唾ものではなく、途絶えた訳でもない。いつの時代もその思想は脈々と受け継がれていることを多くの人が証明している。ただ、昔の錬金術師と現在のそれと違うのは、かつては「科学者」に分類されてはいたが、現代の錬金術師たちは「夢想家」である――という点であろうか。(泰)