「やぐどんこ」から「ほんとこ」へ

(3月22日)

 後輩が懐かしい方言を使って質問してきた。「わらしの頃、やぐどんこ、って言ったすよね」と。「んだ」と返した。
 「やぐどんこ」は、点数や物のやりとりのない遊び事の勝負や、結果的には順位や勝ち負けはつくけれど試しの競争のことを指す。彼は半世紀も前の子どもの頃に、そうした「やぐどんこゲーム」を楽しんだのだろう。
 実際はどんな遊びだったか聞き漏らしたが、「ぱっち」や「ぷっけ」を使った面子遊びのことだったかもしれない。
 やや厚手のボール紙製で丸形の「ぱっち」は表面に武者絵などが印刷されて、大中小のサイズがあった。それを使って地面や畳に打ち付けて、相手のものを裏返しにすれば、それをもらえた。「ぷっけ」は小型の縦の長方形で、ちゃぶ台に置いて吹きつけて「ぱっち」と同様に競った。
 上手下手があり、高学年になると熟練してくるので、技に差がでてくる。そこで、本当ではない試しの勝負がしばしば行われた、と記憶する。
 そこから、「やくどんこ」の語源は何かと疑問がわいて調べた。県教委の「秋田のことば」によると、「やくと」は「役と」のことで、故意に、わざとの意から嘘(うそ)の意に展開したものという。そこにさらに小さい観念や情を示す修辞の指小辞(ししょうじ)の「こ」が付いたか、「事(ごと)」の省略形の「ご」が続いたのではないのかと解説している。
 後輩が「やくどんこ」を思い出したのは、大人になっていろいろ秘めた賭事や大衆ギャンブルをしてきたけれど、たまたま賭けないで遊ぶ勝負事があったためかもしれない。たとえば健康麻雀。あるいは互いがミスをしてしまい、勝負が差し引きゼロの「ちゃら」になったからだろうか。
 「やくどんこ」の反対語は「ほんとこ」。「本当事」からきた方言で、本当の勝負、真剣な競争のことである。
 平成最後の選挙となる統一地方選。そのトップを切って21日、11の道府県の知事選が告示された。そして1週間後、秋田は県議選の告示。能代山本は定数4に現職4人と新人1人が争う少数激戦の様相だ。「やぐどんこ」から「ほんとこ」へである。

(八)


 

花巻の復活大食堂で懐しむ

(3月16日)

 東日本大震災から8年後の三陸海岸の被災地を巡った帰路、岩手県花巻市に立ち寄った。2年前の本紙企画記事「おでかけ日和」に昭和ムードを漂わせる「マルカン大食堂」と名物のソフトクリームが載っていたことを思い出しのだ。
 地方都市はいずこも中心商店街が寂れて、花巻も同様で寂しかったが、大食堂の駐車場は満杯で別の駐車場にようやく止めた。
 古びたビルに入り、エレベーターで6階に行くと、扉が開いた瞬間、目の前は人だかり。レジに20人ほどの列、ショーケース前にはどの料理を選ぶか悩む親子、家族連れで混雑、こちらは簡単にのぞけない状態だった。昼時とはいえ平日である。これが土日であればどれほどの行列になるのかと驚いた。
 食券売り場で、人気のナポリタンにとんかつが乗った「ナポリかつ」は胃にもたれそうなので避け、コロッケそば(530円)とソフトクリーム(180円)を注文、席に座ってレトロな制服の女性に食券を渡すと、半券を寄越し、ソフトは食後に注文してとアドバイスを受けた。
 花巻の街並みを一望できる食堂は、席数は500ぐらいだろうか。その半分が埋まっており、少なくとも常時250人がいたことになる。隣の中高年女性のグループはピザや寿司(すし)や丼物などあれやこれやを取って、楽しそうであった。
 大食堂のあったマルカン百貨店は老朽化と耐震性の問題で4年前の6月に惜しまれつつ42年の歴史に幕を閉じたが、食堂の復活を望む高校生が署名運動を行い、地元の街づくり会社が引き継ぎ、再出発した。その経緯は大きく報道され、知名度をあげた。
 和洋中にスイーツの数多くのメニューは、大衆価格。コロッケそばには三陸のワカメがたっぷり入っていて、味わい深かった。高さ25㌢もあり10段ソフトと呼ばれているそうで、箸でつまみながら堪能した。
 ふと、少年期の能代のみつまるデパート、丸〆デパート、秋田市の木内百貨店のなんでもありの食堂がよみがえり、昭和はデパートの食堂の時代でもあったのだと懐かしんだ。
 そんな大食堂を復活させた花巻に、地方にまだ力があることを教えられた。

(八)
 


 

復興、街も心もまだまだ
3・11から8年の被災地㊦

(3月11日)

 宮城県側から岩手県陸前高田市に入ると、高田の松原の跡地に津波に耐えて残った1本を遺物にした「奇跡の一本松」が立っていた。高さ12・5㍍の巨大な防潮堤に守られるようにして。
 一本松の見学のための拠点の「一本松茶屋」で休憩すると、震災写真展が開かれていたのでのぞいた。同市の震災当日の状況、避難所の生活、炊き出しなどの写真が生々しく張り出されており、改めて地震・津波の恐ろしさ、被災後の避難生活の厳しさを感じた。
 展示場にいた男性に、道路向かいで大掛かりに行われている建設工事は何かと問うと、「新しい道の駅」だと教えた。整備中の高田の松原津波復興記念公園内に配置され、大震災津波の伝承館も併設されるという。
 ところが、こうも付け加えた。「復興庁はあと2年でなくなるが、復興はまだまだ。これからですよ。どうするんでしょうね」と。彼は津波の語り部ガイドの会の代表の釘子(くぎこ)明さん(61)だった。「震災は風化しつつある」と写真展を自主企画したのだった。
 言われてみると、防潮堤は水門以外は完成、復興工事は進んでいると印象を受けたが、中心市街地は道路が整備されてはいるものの、土地のかさ上げ工事は真っ盛り、ダンプカーが頻繁に往来、砂ぼこりが上がるほどで、当然、住家や商店、公共施設が新築されて街が復活するのは当分先のことである。すでに高台に移った住民が戻って来るのかどうか、道のりは険しいのではないかと感じた。
 宮城県南三陸町には28店舗の「さんさん商店街」、岩手県大船渡市には18店舗の「おおふなと夢商店街」が津波に襲われた市街地にできていた。ともに2年前のオープンとのこと。駐車場を完備、それなりの買い物客でにぎわっていたが、周囲に空き地が多いことから、郊外型の商業ゾーンではないのかと見紛(みまが)ってしまった。そして、復興支援を兼ねて訪れていた観光客が少なくなってきているのではとも心配した。
 宮城県気仙沼市でのこと。旅館の若女将(おかみ)だろうか、街に繰り出そうとすると、「足元に気をつけてください」と声を掛けられた。あちこちで土地のかさ上げや区画整理の工事が行われ、危ない状態にあるからだという。港近くの新築の飲食店ビルの酒場でくつろいでいると、店主は2店舗分が埋まっていないことや、家賃が高いことを嘆き、街がどう変わるのか案じていた。
 あれから「もう8年」である。しかし、被災地の復興の進み具合からは「まだ8年」、住民の心の復興も「まだ8年」かもしれない、いや癒えることのない日々であったはずだ。
 被災地に心を寄せて3・11を迎え、犠牲者の冥福を祈りつつ、防災・減災の備えを心する。

(八)
 


 

学校防災を教える遺構
3・11から8年の被災地㊥

(3月10日)

 宮城県へ。JR石巻駅近くの市役所の隣に、4年前の訪問時にはなかったホテルのような建物があった。市立病院だった。
 震災時に海岸近くにあった病院には1階天井近くまで津波が押し寄せ孤立した。仮診療所を経て、移転新築で新病院が平成28年9月に開院したそうだ。院内を見学していると、待合室にいた車椅子の高齢女性が、隣の人と震災を語っていた。
 今は見なし仮設住宅のアパートに暮らしている、地震発生後は近くの門脇小学校に避難したが、津波が押し寄せて来たので裏山に登った、すると流された多数の自動車から漏れ出したガソリンに火が付いて校舎が燃えた─九死に一生を得た話は、診察に呼ばれて中途で終わった。
 河口と海に近い門脇小は発災時、校内にいた240人と、いったん下校して戻って来た児童の275人が裏山に避難し全員無事だった。すでに下校していた児童のうち7人が亡くなったという。
 同じ石巻市でも、全校児童108人のうち74人が亡くなり、教職員10人が犠牲となった北上川河口上流4㌔の大川小と対照的である。その大川小を再訪した。校舎は時間が止まったかのように、被災後の姿をとどめていた。入り口前には鎮魂の慰霊碑、地蔵蔵、鐘。たくさんの花が手向けられていた。祈る夫婦の姿。乗ってきたワゴン車は長崎ナンバーだった。
 児童の遺族が市と県を相手取った損害賠償の民事訴訟は昨年4月に仙台高裁が、学校の防災体制の不備を認定する判決を出したことを思い出した。学校の悲劇、児童と遺族の無念に心を痛めつつ、手を合わせた。
 宮城から岩手県へ。陸前高田市の中心部に向かう手前の国道沿いに鉄筋コンクリート3階建ての廃虚が見えた。近づくと「気仙中学校」と彫られた石門が倒れていた。
 気仙川の河口近くの校舎は完全に水没したが、津波到達前に生徒と教職員の全員が高台に、さらに高台にと2度にわたって避難、全員無事だった。校舎内には黒板の字や散乱した教科書が被災時のままに残されているという。
 掲げられている「絆 未来へつなごう夢と希望」「ぼくらは生きるここでこのふるさとで」の幕の言葉が、胸に突き刺さった。
 門脇小、大川小、気仙中のいずれもが少子化もあって閉校となったが、議論のうえに震災遺構として保存、整備の後に公開される見込みで、いつかまた訪ねて、学校防災を改め考えてみたい。
 今秋のラグビーワールドカップの会場となる釜石市の復興スタジアムは校舎が全壊・浸水被害を受けた鵜住居小と釜石東中の跡地に立てられた。河口近くの学校にいた児童生徒はいち早く山手に避難して全員無事、「釜石の奇跡」とも呼ばれた。そのことも心に刻んだ。

(八)
 


 

ようやく復興の姿が
3・11から8年の被災地㊤

(3月9日)

 岩手県釜石市の港湾が目の前にある7階建てのホテルの3階の和室。明け方、グラッと揺れた。瞬時目が覚めて、地震が続くかと思ったが、すぐ収まった。しかし、あの日、平成23年3月11日のような大地震だったらここはどうなるのだろうかと不安がよぎった。
 7日午前4時26分、震源地は宮城県沖、同県石巻市で震度4であったが、釜石は2だった。ホテルによると、東日本大震災の津波で2階天井近くまで浸水したそうだから、3階は大丈夫ということになる。けれど、あの日のようであれば、恐怖心は尋常ではないはずで、混乱してしまい、無事避難できただろうか。
 ロビーからは港の風景はほとんど見えない。港を囲むようにしてかさ上げされた高さ6㍍の復旧防潮堤が視界を遮り、1・6㍍の縦長の透明なアクリル板から漁船がわずかに見えるだけだった。今は復旧したホテルだけがぽつねんと営業している。
 背後地にあった住家や商店は流され、仮設住宅に入ったり、高台に転居したりしたのだろうし、道路の新設、区画整理で街の様相は一変、ホテル近くには市が復興事業として誘致したショッピングセンターのイオンタウンが新日鉄製鉄所の遊休地に建ち、にぎわっていた。
 釜石の商店や直売所に『「新しい三陸」を切り拓(ひら)く』と書かれたポスターが張られていた。東北横断自動車道釜石秋田線がきょう9日に釜石市内の6㌔がつながり、全線が開通することと、自動車専用の三陸沿岸道の同市内区間が同じ日に全通すること、大船渡市と久慈市を結ぶ三陸鉄道リアス線が23日に開業することの祝賀。
 陸路の高速化は物流を効率化し経済を活性化するだろうし、鉄路の復活は観光を促進するはずだ。行政や住民の期待が街からうかがえた。能代山本からも高速道が釜石までつながることは、難行苦行の旅を解消する。
 今秋、釜石でも2試合行われるラグビーのワールドカップの歓迎ムードも高まっていた。開催に尽力した一人に新日鉄釜石の黄金時代を築いた日本代表の石山次郎さん(61)がいる。能代市二ツ井町出身で能代工高出。同郷人として誇りに思い、津波で多くの人が亡くなった鵜住居地区に昨年完成した復興スタジアムに立ち寄った。
 巨大ではない。だが、どこか温かみがあり、心を寄せあって応援できる競技場であった。知人に頼んだ釜石のワールドカップのチケットは取れなかったが、脳裏に焼き付いたスタジアムからは、ようやく本格的な復興期にある街の姿が重なった。(八)


 


 

「かちゃまし」して「かちゃます」

(3月7日)

 3月。急に春めいて気分が浮き浮きしたのか、冬眠してすっかり能代の夜の街にごぶさたしていた山本郡のある地区の気心の知れた4人が出張っていた
 普段は寡黙、家人の前ではおとなしくしている彼らは、酔うほどに多弁とな
り、相手を持ち上げたり茶化したり、話を大げさに盛ったりしていたが、ある人が突然叫んだ。「おめ、かちゃましな、さっとこ静かにひ」。
 声を高くして面白おかしくしゃべり続ける仲間に対して、少し自分の話に耳を傾けよと諭すように「お前、うるさい、少し静かにしろよ」と。
 だが、「かちゃまし」は単に「うるさい」だけではない雰囲気あるの方言ではないのかと思った。
 「かちゃまし」について県教委の「秋田のことば」は、「やかましい」の意で、「『かちゃ』は物音・噂(うわさ)などがしきりであることをいう擬態語。『まし』はそのような状態であるという意の形容詞語尾」としている。
 工藤泰二著の「読む方言辞典」では「かしま(姦)しい。耳障りでうるさい・喧(かまびす)しい・ガヤガヤする」とあり、語源は「姦しい」からきたとみているようだ。
 また、冨波良二著の「採録・能代弁」は①うるさい②気ぜわしい③クシャクシャして④ゴタゴタして⑤乱暴な様──を表すとし、使用例に「しちゃしちゃて、かちゃまし人だ」(ちょこまかとまあ気ぜわしい人だ)と「かちゃましどこさ来てもらて」(ゴタゴタしている所にきてもらって)の二つ。
 冒頭の場面の発言は、ガヤガヤしているところに、耳障りで乱暴な言い回しがやかまし過ぎたことに対する、注意の叫びといえるだろう。
 そして、これも付け加えたいと思った。「かちゃます」。「し」ではなく「す」。「掻(か)き回す」が訛(なま)った方言で、料理や作業の時に発せられるが、余計なことをしてごたごたを起こしたり、紛糾させて引っかき回すことの意味でも使われる。
 オヤジの寒いダジャレになってしまうが、最初のシーンは「カチャマシくすれば、結局はカチャマスことになる」である。和気あいあいだったけれど。
 かちゃまし、もあきれられぬよう、ほどほどにである。(八) 


 


 

JR車内販売に「寂しすナー」

(3月1日)

 後輩が「どっひば、いいもんだすか。何だか寂しすナー」と話し掛けてきた。「何がどうして」を言わずに質問を先にするものだから、「何のこっちゃ」と思い聞き返すと、鉄道の車内販売がなくなるとのニュースを知ってのことだった。
 彼は同業の仲間や協力企業の経営者らと東京周辺へ新幹線に乗って旅をする。仕事に追われ毎日が忙しい身にとって、気心の知れた連中と旅行という非日常を過ごすことは、解放感をもたらし、ハイになり、羽目を外したくなるらしい。
 そこで、座席に着いてしばらくすると、午前中からでも一杯引っかけたくなり、車内販売のワゴンが車両に入ってくるとそわそわし、近づくと「お姉さん、ビール頂戴」と声を掛け、干物やピーナッツのつまみと一緒に買い求める。仲間もまた。中にはワンカップ酒組もいるとのこと。
 「グビーッと、いいもんだすよ」と教えた。ワゴンと販売員が来るたびに注文したようで、グループ全体ではかなりの量になるはずだ。駅弁もお楽しみという。
 それがなくなれば、彼らにとっては由々しき問題になるというわけだ。「どうすればいい」に対しては、始発駅でアルコールと駅弁とつまみを買うしかないだろうと話した。この頃は駅弁売り場は充実しているし、駅にコンビニもあるから、十分対応できるはずなので。すると、彼は「じゃあ、クーラーボックスを用意しなければならない」という始末だった。
 彼も小欄も「車内販売廃止」が強く印象に残っていたので、そんな会話が続いたのだが、正確なことを知っていれば、大げさにならないはずだった。
 JR東日本の発表は、3月16日から車内販売を「大幅に見直す」で全部が全部廃止ではなかった。能代山本の人がよく乗る列車では、撤退は秋田新幹線こまちの盛岡─秋田間と特急いなほの秋田─酒田間。こまちは盛岡─東京間の販売は縮小で、アルコール類やソフトドリンク、菓子などに絞られるという。
 乗車前の事前購入の増加による売り上げ減、人手不足などが変化の背景にあるが、酒の国秋田の中高年にとっては、旅の楽しみが薄れそうで、やはり「寂しすナー」か。 (八)