かつて能代のカクテルがあった

(6月21日)

 「私、昔、カクテルが好きだったのよ」。夫よりも酒が強い60代後半の元気な女性が話した。
 彼女が若かった頃、能代の歓楽街はにぎやか。料亭、小料理屋、酒蔵のほかに、バーやキャバレー、スナックがひしめいていた。
 若い人は、都会的な雰囲気や洒落(しゃれ)たセンスを感じようと、カクテルを求めた。応じてシェーカーを振り、バースプーンで手早くかき混ぜる腕のいいバーテンダーもいた。
 女性はスミレのリキュールをベースにしたバイオレッドフィズ、アルコール度数の高いウオッカとオレンジジュースのスクリュー・ドライバーを酔わせようとする男友達に勧められて飲んでいた。ほろ苦い風味のカンパリ・ソーダ、爽やかなジン・フィズも人気。
 小欄は、映画「007」のジェームズ・ボンドが好んだ「カクテルの王様」で、ジンとベルモットをステアした辛口のショートドリンク「マティーニ」を格好つける「きだふりまげで」飲んだが、強過ぎて何が何だかわからなくなり…。
 冒頭の彼女が好きだったカクテルは聞きそびれたが、能代にかつて「カクテル文化」があったことを思い出させてくれた。
 先日、テレビで業界の最年少と最年長が出会うバラエティー番組があり、そこに最年長バーテンダーとして山形県酒田市の井田計一さん(91)が紹介されていた。
 井田さんが半世紀以上も前に考案したウオツカベースの「雪国」は、日本が生んだカクテルの傑作といわれている。そのことは、東北各地を転勤した金融機関の支店長から聞かされていたが、ぜひ飲んでみたいと思った。
 ふと、わが能代にも地域をネーミングにしたカクテルがあることを思い出した。西通町でバーやビストロを営んでいた納谷喜代治さんが、亡くなった平成8年の数年前から挑んでいた。
 地元の大吟醸酒や純米酒をベースに、「風の松原」はグリーンをイメージして抹茶を使って、「ポンポコ」はナシの産地峰浜にかけて洋梨リキュールにラベンダー酒を混ぜて。「白神」にはブナの葉を添えて。今は幻。どなたか挑戦・復活してくれないかしら。  (八)

                        


 

ある老父と息子の風景から

(6月17日)

 取材でお世話になった男性は、90歳を超えたとは思えない元気さで、趣味を楽しみ、近所とも仲良しである。その人がある日、能代市内の蕎麦(そば)屋で、都会に暮らす60代前半の息子とニコニコしながら昼食を取っていた。
 妻と死別し、長く独り暮らし。陽気な人も寂しさにさいなまれることがあるだろうし、長くはない先行きを不安に思うこともあるはずだ。だから、忙しい身の息子が訪ねてきて、自然と笑みがこぼれたのだと思った。
 帰り際、息子は「実は家の中を片づけに来たんです」と教えた。矍鑠(かくしゃく)としているとはいえ、父親の年齢を考えて都会に呼び寄せるのかと一瞬想像したが、そうではなくて、物にあふれ、それを整理整頓できない状態を見兼ねて実家にやってきたのだった。
 父親は生まれ育ち働いた能代を離れる気はさらさらないようで、息子家族が連絡を取り、今の状況を確認、時折帰省しているらしい。息子と父親はお互いを気にしながらも、案外に会話が成り立たないものだが、互いを認め合う彼らは久しぶりの再会を喜び、話を弾ませていたから、良好な親子関係にあるとみた。
 家族はさまざまであり、複雑である。メールやら電話で頻繁につながっている家もあれば、音信が途絶えがちの親子もある。
 友人は、息子の動向をインターネットのフェイスブックやブログで確認しているという。「娘はああだこうだと言ってくるのに、息子はゼンゼン」と嘆く母親もいる。とすれば、父親は蚊帳(かや)の外に置かれているか。どんな事情があるのかは知らないが、何年も子どもから音沙汰のない親、子を拒絶する親もおり、親戚の間にそのことに触れない雰囲気が漂っている場合もある。
 一方で、冒頭のような親子。この頃よく見かけるのは、老いた父親を中年の息子が介添えしてスーパーで買い物している姿だ。息子は随分心配している感じで、父親は申し訳なさそうに。娘と母親の難し気な買い物とは異なる風景である。
 明日18日は「父の日」。娘は父にどんな声をかけるだろうか。息子はどうする。老いた父も中年の父も、首を長くしていると代弁する。(八)

                        


 

ミョウガ、旬の若芽を味わう

(6月10日)

 能代に帰省した幼なじみを囲んで、5人で懇談した時のこと。店主が用意してくれた料理は、「ミズのさざなみ和(あ)え」。
 湿った場所に生える山菜のミズは、素人でも簡単に見分けられるし、まだしばらくの間は食べられるはずだが、全県にクマの出没警報が出ているので、おいそれと採りにいけない。それを手当てしてくれたのだから、皆が喜び、ふるさとに戻ってきた人は「ミズだ」とうれしそうな声を上げた。
 「さざなみ」とは、香川県小豆島のメーカーの塩吹き昆布の商品名だが、能代山本をはじめ県内では絶大な知名度と人気で、ミズの販売棚に置いているスーパーもあるほど。
 茎の粘り気がありながらシャキッとした歯触りに、塩昆布の味が絡んだ和え物は、簡単レシピの即席漬けのようであり、生ビールにぴったりだった。
 別の皿には、下の方が白、上部が緑の山菜のような、山菜のようでもないものが30本ぐらい並んでいた。味噌(みそ)を添えて。
 それでエシャロットか浅葱(あさつき)かタマビロコ(野蒜・のびる)かと思ったが、それらの一番美味(おい)しい球形がないし、匂いも強烈ではなく、「はて何だろう」と皆が疑問の表情。ふと、過日、農家の友人が「んめど、お浸しで」と持ってきてくれた茗荷竹(みょうがだけ)(ミョウガの若芽)ではないかと思い、店主に確認したところ、そうだった。
 雑草状態になっている自宅のミョウガ畑から顔を出し伸びている若芽を摘んで、提供したのだった。生はシャキシャキとして、鼻にスーッと抜ける香りが爽やかだった。先日のお浸しはやさしい味。
 すっかり茗荷竹にはまって、もしかして農産物直売所にあるかもしれないと立ち寄ると、あった。1袋に15本前後で120円を2袋買い求め、味噌を付ける生と、醤油(しょうゆ)漬けで味わった。
 ミョウガは、夏に薄紅色の花穂を、秋にはコリコリした白い茎を好んで食べるが、若芽を味わえるとは幸いであった。
 ただ、日持ちがしないためか、農家が忙しい時季のためか、能代産の若芽はほとんど市場に流通していないようで、お目にかかるのはまれだ。惜しい気がする。

(八)

                        


 

記者を鍛えた能工バスケの歴史

(6月8日)

 昭和42年秋、埼玉国体のバスケットボール少年男子で能代工業高校が優勝、初の全国制覇を大見出しが躍る小紙を読んで、「すごい」と思うと同時に、能代のスポーツ界に新しい波が押し寄せると少年は感じた。
 子どもがあふれていた時代。台の上に立った選手が味方が放ったボールをキャッチすれば点数が入るポートボールを楽しんだこともあってか、中学校でバスケット部に入る仲間も多かった。
 しかし、東京オリンピックで主将を務めた小野喬さんの故郷能代は、体操で能代高が戦前から昭和30年まで全国制覇を重ね、バレーボールでは能代高が昭和31年のインターハイで優勝、さらに同38年に能代高硬式野球部が悲願の甲子園出場を決めるなど、バスケットは必ずしも花形スポーツとしてもてはやされてはいなかった。
 それが、加藤広志さんが35年に母校の監督となり、その指導で力を付け、38年に新潟県の三条インターハイに初出場。4年後の国体で頂点を極め、「能工バスケ」が能代山本に全県に、全国に知られるようになった。
 自分と同年代も能代工バスケ部で厳しい練習を重ね、インターハイ、国体で優勝した。やがてオリンピックに出場した選手も。勇気づけられ、誇りにも思った。
 能代工バスケの全国大会出場は小紙の記者を派遣させ、取材する彼・彼女らを鍛えた。
 試合はどう展開したかの戦評、勝利の立役者のクローズアップ、監督・主将のコメント、応援席の風景、戦いのベストショットなど多様な写真撮影を一人でこなし、それらを本社に送り、やり取りをするからである。
 いい写真が撮れない、予想外の敗退にどう書けばいいのか、悩みもがいた彼女がいた。優勝をわがことのように喜び、涙目になった彼がいた。小欄は、劇的な延長戦の末の優勝に、カメラのシャッターを切るのを忘れて呆然(ぼうぜん)としていた。
 選手とその家族にも学校関係者、ファン、能代山本の住民にも、記者にも能工バスケの思い出がある。
 10日は全国初制覇から50年を祝う「メモリアルイベント」の目玉の現役─OB戦。能工の復活を期待しつつ、観戦に行く。  (八)

                        


 

新青森駅で知った能代七夕

(6月4日)

 「青森で、能代の七夕の歴史を知ったよ」と東京在住の60代後半の男性が語った。
 5月にふるさと能代に帰省する際、東北新幹線で新青森駅まで行き、そこで奥羽本線に乗り換えて東能代駅に向かおうとして、2階の通路の壁面で「能代七夕の歴史」を見つけた。そばには実際に使われた大型ねぶたの面が展示されていた。
 「ねぶたの変遷」がパネルで示され、享保(1716─1735年)の頃に弘前のねぷた祭を真似(まね)て灯籠を持ち歩いた記録があるが、日本で屈指の大きな祭りに発展するとは当時の人々は思わなかっただろうと説明。その頃は京都の祇園祭の山車(だし)に似ていたと推測。現在の歌舞伎などを題材にした灯籠が登場したのは平民芸術熟覧期の文化年間だとみている。
 その様子を江戸の風流人・滑稽舎語仏こっけいしゃごぶつが「奥丿しをり」に書いており、青森の郷土史家が昭和41年に東奥日報に載せた現代文に直したものを掲示した。
 《天保十三年(1843)秋田の能代で七夕祭りを見た。それは〝ねむたながし〟と称して人形を出している。高さ三丈ぐらい(約10㍍位)大きさ三間(約6㍍位)四方の神功(じんぐう)皇后三韓統一や加藤清正朝鮮遠征の人形で、ロウソクをともして、地車でひいている。人びとはカネ、太鼓、ホラガイではやしたて踊り騒いでいた。まことに珍しいことで、これは津軽の弘前や黒石、それに青盛(青森)のあたりにもあるということである》
 そして「能代市のねぶたは、現在では名古屋城を模したという城郭型で、大きさは青森と変わらず、ほぼ同型のものが7~8台出て市外を練り歩いています」と紹介している。
 パネルの写真を送ってくれた人は、能代を離れて50年。作話であろう阿倍比羅夫や坂上田村麻呂の蝦夷征伐で灯籠を使って敵をおびき出したという由来は聞いていたが、歴史は知らずにおり、今にして「へえ〜」を連発したようだ。
 記述の基となった「奥丿しをり(奥の枝折)」は、能代市教委刊行の「眠流(ねぶなが)し行事・能代役七夕)の「灯籠の変遷」の項にも載っている。ただし高さは五丈八尺とある。
 能代七夕の歴史と変遷を広く分かりやすく伝えたい。   (八)