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2014論考へ

 

問われる議員の質と活動

─能代山本3市町、来春へ定数削減

(2013.12.12)

 八峰町議会が11日、議員定数を現行の14から2削減して12とすることを決めた。これで来春、議員選挙を行う能代山本3市町のすべてが定数削減を決めたことになる。議会自らが痛みを伴う改革を実行することを示したことになるが、定数減は議員1人ひとりに「より広く住民の声を聞き、政策に反映させる」「今まで以上に行政監視をする」という根源的な意識改革を迫る。
 能代山本の議員定数の変遷をみてみる。戦後の市町村合併後、昭和30年代から50年代は定数に変動はなく、能代市36、二ツ井町22、琴丘町18、山本町20、八竜町18、八森町20、峰浜村18、藤里町18。郡市に合わせて170人の議員がいた。
 昭和60年代に入って国・地方に行財政改革が求められ始め、軌を一にして能代市では住民が議員定数削減運動を起こし、条例制定の直接請求書が提出されるなどしたことから、議会自らが定数改正条例を発議するようになった。
 そして、能代市は62年の選挙で定数を6削減して30とし、翌63年には八森町が4削減の16で議員選を行っている。以降、八竜町以外はさみだれ的に定数を削減、「平成の大合併」前の最後の選挙の定数は能代26、二ツ井20、琴丘16、山本18、八竜18、八森14、峰浜14、藤里12で郡市総計は138、50年代対比で32人減となった。
 「平成の大合併」後の18年は能代市(能代、二ツ井)28、三種町(琴丘、山本、八竜)22、八峰町(八森、峰浜)16でスタート、改選時の22年は能代26、三種20、八峰14、そして来春は能代22、三種18、八峰12。合併せず単独の道を歩んでいる藤里は20年に2減の12、24年にさらに2減の10で現在に至っている。
 能代山本の市町の議員は20年に78人だったのが、来春は62人に。30年前に比べると108人、64%減ることになる。昭和58年の能代山本の人口(県調べ)は12万人、現在は8万5千人。定数に対してはさまざまな議論はあったが、急激な人口減少に加え、地域経済の低迷、自治体財政の厳しさの中で、住民から議員定数を求める声が高まり、それに議会が応ずるのは「時代の要請」であったともいえる。
 一方で、「議員の数を減らすことで住民の声が届きにくくなる」との不安の声も聞かれている。また、議会にかかる経費の抑制を目的とするならば、定数削減よりも議員の報酬を減額したり、出席日数に応じた日当制にするべきなどといった意見も根強くある。
 これらの不安や意見の底には、首長と異なり常勤ではない議員が報酬(能代市で年間約550万円、町で350万円前後)に応じた働きをしているのか、幅広く住民の声を聞き、その声を吸い上げて政策提言としているのか、市・町の運営をきちんと見張っているのか、などと住民側に疑問があるからであり、「議員の役割」を問い返しているのである。
 定数削減によって、「議員の活動」「議員の資質向上」は従来以上に求められる。それには選ぶ側の有権者の厳しい「選択の眼」が必要である。


 

小さくとも輝いているか

─1日、藤里町は町制施行50年

(2013.10.30)

 藤里町の町制施行50周年記念ウイークが1日から始まる。「町の歴史を振り返り、先人たちの礎に感謝し、あゆみを残すとともに町の魅力を発見し誇りを持てるような催しを予定している」そうだが、平成の大合併が一大潮流にあった10年前に、単独立町を選択、以降「自立の道」を歩んできたことをいま一度振り返り、地域づくりを考えたい。
 同町の誕生の経緯をたどる。明治22年の町村制実施に伴い、粕毛村と矢坂村が合併して粕毛村に、平(太良)村を合わせていた藤琴村と大沢村が合併して藤琴村となっていたのが、昭和の合併(30年)で藤里村に。「藤里」の由来は藤琴の藤と粕毛素波里の里を採ってのことである。その後昭和38年11月1日に町制施行した。
 それから40年後、当時、人口4千人を割る寸前で能代山本8市町村で最も人口が少なかった同町は、選択の岐路に立たされた。平成の大合併に参加するかしないか─。上小阿仁村に次ぐ県内2番目の高齢化率、少子化、衰退低迷する農林業が主体の産業構造、財政基盤の弱さ、そして地方交付税の減額など町を維持する環境の厳しさが一段と増していたからである。
 しかし同町は、地域座談会、町民アンケートなどを踏まえ、町民が「合併を望んでいない」「単独の町を求めている」とし、能代山本圏域の大合併からいち早く離脱、「小さくとも輝く町づくり」を目指したのだった。
 それは、合併によって中心部と周辺部の格差が広がり、山間部にある袋小路の町が衰退するとの危機感や、地域の個性が失われる、きめ細かなサービスが受けられなくなるなどの不安感が底にあった。一方、世界自然遺産に登録された白神山地の麓で、豊かな自然に恵まれており、観光・特産品開発などに活路を見いだせるとの期待、さまざまな伝統文化が保存されていることの誇りもあった。
 そして、最終的に身の丈に合った財政運営、徹底した行財政改革によって、自立の道を進めると政治判断をした。
 果たして、持続可能な町づくりは進んでいるだろうか。
 地球環境の視点から森林・木材の役割が注目されているとはいえ、林業の再興はなお厳しい。TPPや減反見直しも絡んで中山間地の農業は今も将来も険しい。白神山地の観光は、残念なことに8月の豪雨で接続道路が崩壊し復旧にしばらく時間がかかり、観光拠点施設で公社運営のホテル経営の再生も課題である。
 しかし、困難にあっても厳しい現実を見据え自殺予防対策、ひきこもり者就労支援に取り組み、全国の先駆例である。白神山地の保存と活用についても真摯だ。特産品の開発、高齢者は子どもたちの見守り活動の輪も広がった。
 町民一人ひとりが小さいながらも力を出す─それは合併を選択せずに、小さい自治体であることを求めた町への住民の愛着と責任感にも思える。
 町制施行から50年、単独立町宣言から10年。藤里町民だけでなく、能代山本圏域住民も現状を見据え、地域の未来図に思いをはせたい。


 

「おもてなし」で能代山本に

〜秋田DCが1日スタート

(2013.9.27)

 秋田デスティネーションキャンペーン(DC)──JRが自治体や地元観光業者と協同で実施する大型観光事業が10月1日から本格化する。「全国のお客様を秋田に」とすでに東京の山手線ではDCを周知するラッピング電車が走り、全国のJR駅ではポスターを掲示、テレビでもコマーシャルが流れ、「秋田一色」の感があり話題と関心を集めている。
 全県で、そして能代山本でもさまざまなイベントや誘客作戦が展開される。どれだけ集客できるかは未知数であるが、「おもてなし」の心で迎え入れ、再び秋田を訪れたいと思わせ、リピーターにつなげたい。同時に、地元の観光資源を見詰め直し、住民1人ひとりが地域の活性化、交流人口の増加に向けて、「秋田においでよ」「能代山本に来てね」と小さな実践を積み上げたい。
 JRが主体となって観光を売り込むDCは秋田県では、東北・上越新幹線が大宮から上野に延びて首都圏に直結した昭和59(1982)年に「まごころ秋田キャンペーン」、秋田新幹線が開業し、五能線に新たに「リゾートしらかみ号」が登場した平成9(1997)年に「秋田花まるっキャンペーン」が行われており、今回が3回目となる。
 過去のDCでは秋田への注目度を高め、十和田八幡平や田沢湖・角館など大観光地に県外客が増えた。また、リゾートしらかみ号の運行は、五能線を「乗ってみたいローカル線」としての人気度を飛躍的にした。しかし、誘客行事を企画したにもかかわらず、実際の観光客は期待したほどではなく、能代山本に波及効果は薄かったと指摘された。
 今回の秋田DC(12月まで)では、8月に初めて運行された能代市の大型七夕「天空の不夜城」が、DC前のプレキャンペーンに位置づけられ一役買った。一方で、世界自然遺産登録20周年で能代山本の観光の目玉と期待された白神山地が8月上旬の豪雨で藤里町側のアクセス道路が壊滅的な被害となり、影響を受けている。白神観光イベントは異例の町外に変更するなど代替策を講じてきているが、広域連携でDCの受け皿になってほしいものである。
 また、能代山本4市町と県山本地域振興局で組織する「あきた白神広域観光推進協議会」は、10月の毎週日曜日にJR秋田駅発着の周遊バス「白神日和号」を運行、能代山本の見どころを楽しんでもらうことにしている。山岳ガイドや観光関係者が5月に発足させた「秋田白神コミュニケーションセンター」は、DCを前に観光資源の掘り起こしや観光客の受け入れ態勢の情報を共有する集いを開いた。
 さらに、天然秋田杉の粋を集め木都能代を象徴する歴史的建造物の旧料亭・金勇が保存改修工事を終え、DCに合わせて1日から公開される。
 こうした具体的な取り組みが、秋田県全体から、絞り込んで能代山本へと目が向けられることが期待されよう。いずれにしても、地域の観光資源を見直し、広くPRすることは何年も何十回と続けられてきた。反省はないのかを問い返し、工夫を凝らし継続していきたい。


 

地域の魅力に「宇宙のまち」

─夢広げるイベント開幕に寄せ

(2013.8.19)

 能代宇宙イベントが1週間の日程で始まる。全国から大学生や中高校生らが集まり、自作のハイブリットロケットや空き缶サイズの模擬人工衛星の打ち上げ技術などを競う。今年で9回目。能代は「宇宙を目指す学生たちに特別なまち」となっているそうだが、温かく受け入れ、住民もまた「夢ある宇宙のまち」の一端に触れたい。
 宇宙イベントが能代で始まったのは平成17年。この年、旧岩城町(現由利本荘市)の道川海岸で「日本のロケット開発の父」と呼ばれた故糸川英夫博士らが国内初のロケット飛翔実験を行ってから50周年に当たることから、宇宙への関心を高め宇宙教育を促進することなどを狙いに日本モデルロケット協会や大学関係者が主催したのが始まり。
 その時は、150人の参加であったが、関係者の熱意とイベントの認知度が高まり、また能代市の業界団体なども組み込んだ実行委員会の受け入れなどによって、今年の参加は500人が見込まれているという。
 昨年は高校生による「ロケット甲子園」で能代高が初優勝、アメリカのワシントンで開かれた全米モデルロケット大会に日本代表として出場する快挙を成し遂げ、市民に明るいニュースを提供した。また、今年は初めて県内中学生を対象にしたモデルロケット県大会も開かれることになっており、夢を乗せた挑戦の底辺が拡大する。
 会場は、能代市浅内の第3鉱さい堆積場と同市落合の能代海水浴場跡地。主会場の鉱さい堆積場はこれまでゴルフ場やメガソーラーなどさまざまな活用が提案された場所だが、今では「能代宇宙広場」として親しまれ、大学の宇宙プロジェクトの実験地としても利用されており、跡地利用の一定の方向が見えている。
 宇宙イベントが能代で行われる理由は、言うまでもなく、宇宙航空研究開発機構(神奈川県相模原市・JAXA)の能代ロケット実験場の存在がある。
 同実験場は昭和37年10月に当時の東大生産技術研究所の附属施設として開設、文部省の宇宙科学研究所など所管を変わって今日に至っているが、科学衛星や深査機を打ち上げる固体燃料ロケットをはじめ、液体水素を燃料とするエアターボラムダジェットエンジン、再使用ロケットの燃焼などさまざまな実験が行われてきた。
 世界で初めて小惑星「いとかわ」から微粒子を持ち帰って奇跡の生還を果たした「はやぶさ」を打ち上げたM─5型ロケットの燃焼実験も能代で繰り返された。 
 一昨年7月に能代で「はやぶさ」帰還カプセル特別展示、昨年9月に「はやぶさ」プロジェクトマネージャーの川口淳一郎教授らの講演が行われたのも、そして宇宙イベントが続いてきたのも、開設から半世紀を超えた実験場と、そこから広がった人のつながりであった。
 付け加えるならば、能代市が政令都市の相模原で物産展をはじめ交流事業を行い、大震災の被災地大船渡市の復興支援に積極的であったのは、宇宙研施設の所在自治体が銀河連邦という友好提携を続けてきた成果である。
 実験場の存在、来年10周年を迎えるイベントの着実な歩み、人の輪、応援体制。それらを効果的につなげて、「宇宙のまち能代」を地域の魅力・振興策として充実させたい。


 

七夕と観光を考える機会に

─「天空の不夜城」いよいよ

(2013.7.30)

 港町能代に江戸後期から明治期にかけて運行されていた大型城郭灯籠が、「天空の不夜城」としてよみがえり、いよいよ組み立てされる。5丈8尺(約17・6メートル)の夢の復活にこぎ着けた能代商工会議所、能代青年会議所などを中心に構成する協議会の熱意と実行力を評するとともに、3日と4日の市街地運行の安全と盛況を祈る。
 同時に、「天空の不夜城」をはじめ、2日のこども七夕、6日の役七夕、7日のシャチ流しを多くの市民が見物して、地域活性化の今後の方向、能代の観光資源である七夕の将来を、考えたい。そうすることで、1日から始まる今年の「七夕週間」は特別な意義を生む。
 元気な小学生たちの田楽行列、威勢のいい若者たちによる笛太鼓の道中ばやし、浴衣姿に提灯を揺らす若長、そして夜空に色鮮やかに浮かぶ城郭。それらが絵巻となった能代の役七夕は、東北各地に伝わる眠り流し行事の中で、最も優美さを誇ると言われる。また、哀調のメロディーに送られ、赤々と燃え盛りながら米代川を下る「シャチ流し」は郷愁を誘い、趣がある。
 この伝統行事を観光資源にとらえ、全国に発信して人を呼び込もうと多くの先人が試行錯誤してきた。それは、旧能代港町に形成された5町組が輪番制で運行する役七夕が、年ごとに灯籠数が異なり、また構成町内の世帯数格差が大きいという歪な構造、経費負担の重さと寄付の在り方、市街地のドーナツ化現象と少子高齢化による人員確保の困難などによって、改革が求められてきたことと、表裏をなすものであった。
 具体的には、昭和30年代後半からの改革論議を踏まえ、観光協会が「ねぶながし会」を結成、44年から観光七夕として灯籠を役七夕と別に運行、47年から3年間は東京の「銀座まつり」に参加して宣伝に努めた。そのほか、有志七夕が独自に七夕ウイークに運行することもあった。しかし、観光七夕は役七夕の補完的な役割になりがちで、中断、再開、中止の道をたどり、有志七夕も登場しなくなっている。
 一方、役七夕は意地と矜持で伝統を守っているものの、世帯数不足に実働部隊の減少、財政難から運営に窮する事態も出始めており、先行きに深刻さが増している。また、今年で51回を数える「こども七夕」も、少子化の波に参加の見合わせや町内再編が進んでおり、関係者の尽力にも限界が見えている。
 総じて、能代の七夕まつりは、観光面でも伝統行事としても萎んでいるのである。そうしたことを踏まえるならば、「天空の不夜城」は、明治以降延々と続いてきた「七夕改革」と、戦後繰り返されてきた「七夕の観光化」の表裏の問題に、答えを導く壮大な実験といえる。
 観光の見直し、地域活性化の点から言えば、協議会の広幡信悦会長がいう「天空の不夜城にどれだけの集客力があり、どのような評価を受け、地域の振興、経済面にどれだけの相乗効果が出てくるか今後の方向性が見えてくる」であろう。
 その上で、別な存在として置かれている役七夕に加え、こども七夕との関連、さらには能代港花火、おなごりフェスティバルを含めた能代全体の観光戦略の再構築が必要である。祭りを、イベントを盛り上げたい。


 

「地方の未来」を公約に求める

─参議院選挙の公示を前に

(2013.6.30)

 参議院選挙の公示が来月4日に迫り、各政党の公約もほぼ出そろった。
 政策面の争点は、安倍政権の経済政策の「アベノミクス」、憲法改正の発議要件を定める96条の改正、原子力発電所の再稼働、消費増税の引き上げ時期、TPP(環太平洋連携協定)の参加、外交と安全保障などさまざま挙げられている。選挙区・比例区の立候補予定者の討議資料にも、それらが羅列されている。有権者の側は、その中から自分が政治に求める優先順位を決め、共感・共鳴する施策を訴える政党・候補を選ぶことになるが、選択するに当たって「地方の視点」を持ちたい。
 秋田県そして能代市山本郡の住民は、地域の将来に長く不安を抱いてきた。農林業や木材をはじめとする地場産業の低迷・衰退、新たな産業が生まれにくい経済状況に加え、国際競争による国内産業の空洞化によって雇用の場は縮小、働く場を求めた都市への人口流出が止まらず、一方で少子化と高齢化が顕著になったためである。
 かつてにぎわった商店街はシャッター通りと化し、集落では過疎化から持続困難な限界化もみられ、まちむら全体に活力が失われている。もちろん、県・市町村をはじめ自治会、商店会、商工団体に個々人などが、地方再生・地域活性化に向けて手をこまねいていたわけではなく、知恵を出し合い、懸命の活動をしている。それでもなお厳しい現実にさらされている。
 そして、地方は不安以上に危機感が高まっている。国立社会保障・人口問題研究所が発表した2040年の人口推計である。現在(3月末)108万人の秋田県の人口が27年後には70万人になると予測されている。人口減少は全国各地で起きるが、本県の減少率は35.6%で全国で最も大きく、高齢化率は43.8%で全国最高になるという。同様に能代市は現在の5万8500人余が27年後に3万4000人台に、1万8000人の三種町は1万人に、8000人の八峰町は4000人台に、4000人弱の藤里町は1800人台にと推計している。
 中高年は子や孫の世代の行く末を心配し、若い人々は未来に不安を抱いている。地域を永続させていくために将来図をどう描けばいいのか、地方が個性を生かして超高齢化の悲観論を跳ねのけていくためには何が必要であるのか、それこそが政治に求められる課題であり、立候補予定者も各政党も訴えるべきであろう。


 

高めよう防災・減災の意識

―30年目の5.26と3.11を重ねて

(2013.5.25)

 能代山本で多くの人々が亡くなり、建物や道路や港湾施設などに甚大な被害をもたらした日本海中部地震と津波。あれからあす26日で30年目を迎える。あの辛い体験と後世に伝える教訓は生かされているだろうか。
 2年前の3・11東日本大震災・大津波・原発事故の記憶が生々しく、被災地は厳しく長い復興の途上にあることが伝えられており、住民一人ひとりに災害に対する心構え、行政や自治会に対策と備えの意識が高まっているはずだが、30年目の5・26日本海中部地震と一昨年の3・11に重ね合わせて「地域防災」を考えたい。
㌔で発生した地震はマグニチュード7・7。日本海側で発生した地震では最大級だった。
 その中で、防災関係者から今なお評価されているのが、火災が昼食炊事時間帯にもかかわらず能代山本では1件もなかったこと。日本海中部地震のその後の北海道南西沖地震、阪神淡路大震災などの火災被害の甚大さを見ても、「特筆すべきこと」であろう。
 それは、能代市が戦後二度にわたる大火を経験、また機会あるごとに火災予防訓練を積んできたことが地域全体の防火意識を高め、激震の中で必死になって火を消すことに及んだと見ることもできる。
 しかし、死者は能代山本で57人を数え、うち55人が津波の被害者だった。経験もしなかった大津波、さらには「日本海に津波はないだろう」という誤った思い込みが避難を遅くしたと指摘されている。日本海側では39年の新潟沖地震で津波が押し寄せたこと、さらには太平洋側だが同じ東北の三陸地方で過去に津波で大勢の住民が犠牲になった歴史も広く認識はされていなかった。
 また、能代山本の住宅の全壊は854棟。液状化現象が発生、地盤が沈下し被害を大きくした。液状化現象もまた新潟沖地震でクローズアップし、問題が指摘されていたが実態はほとんど手がつけられておらず、宅地開発が進んだ軟弱地の地盤対策の在り方、さらには地震に強い家づくりが指摘された。
 この30年間、5・26「県民防災の日」を中心に、万一に備えて総合的な訓練が行われ、さまざまな場面で地震対策が話し合われ、防災が訴えられてきた。2年前の東日本大震災以降は、地域の防災計画の見直し、津波被害予想図の策定、標高の掲示、避難路の整備、高齢者と施設入所者、自治会・行政を含めた総合的な避難訓練などが具体的に行われている。
 しかし、体験と記憶は、災害のない安定が続くと、危機感の薄れから、やがて忘れ去られるようになる。そして、地球物理学者の寺田寅彦氏の言う「災害は忘れた頃にやってくる」となり、「文明が進むほど天災による損害も累進する」可能性が高まる。
 防災へ減災へ、あの日あの時、5・26と3・11を思い浮かべ、何をなすべきなのか、どう対応すべきなのかを平時から語り合い、繰り返し繰り返し訓練を重ね、見直すべきは見直し、次世代へ繋げたい。


 

促せ政治・選挙への参加

―憂うべき地方の投票率低下

(2013.5.2)

 今年7月に参議院選挙、来年春には能代山本で能代市、三種町、八峰町の首長と議員の選挙。それに住民は関心を持ち、投票という権利を行使するのか、懸念が広がるばかりである。
 先月28日の参院山口選挙区補欠選。安倍政権発足後初の国政選挙で、自民党新人の前下関市長が(56)=公明党推薦=が、民主党前衆院議員で無所属新人の元法相(59)=民主党、みどりの風推薦=ら3氏を大差で破って初当選した。ただ、今後の政局を占う意味で注目され、首相や党首らが続々応援に駆け付けたにもかかわらず、投票率は38・68%と前
61・91%を大きく下回り、過去2番目に低かったという。
 当選者の得票は、投票総数の62・50%を占めたが、全有権者に対しては24・17%。投票所に足を運べない事情がある住民がいるにしても、4分の1にも満たないという結果は、勝ったとはいえ多くの信任を得たとは言い難い。
 4月は全国各地で市長選や町長選が行われた。平成の大合併のピークだった2005年3〜4月に新設された市町が多かったためだ。投票率は80%台の高率の市町があるにはあったが、「過去最低」や50%を割るケースが続出、30%台も目立った。
 低投票率は若者の多い都市部と、現職に共産党系が対抗する「信任投票型」に多いと分析されてきたが、今回は濃密な住民の結び付きから選挙に関心が高いとされてきた地方都市に極端な低率が現出、さらには現職に有力な対抗馬の一騎打ち型や新人乱立、三つどもえなど有権者の関心が高まりそうな構図、政党の動向に絡んで全国的に話題となったケースでも住民の半分以下の投票に終わった市もあった。
 秋田では今春、県知事と九つの市町長選挙が行われた。知事と男鹿、由利本荘、大仙の3市がいずれも現職の無投票当選で、大仙が3選、ほかは2選。
 選挙が行われたのは、現職を交えた三つどもえの秋田市、小坂町、現職と新人もしくは元職の一騎打ちの北秋田市、湯沢市、潟上市、新人対決の羽後町の6市町で、投票率は高い順に小坂85・57%、羽後79・31%、湯沢67・72%、北秋田67・51%、潟上55・78%、秋田49・15%で軒並み前回を下回り、北秋田は14ポイント、秋田は13ポイントもの減少。潟上は前回無競争で前々回との比較では18ポイントダウンである。
 投票率はそれぞれの自治体の抱える課題や選挙事情、住民意識によって異なり、同列に論ずることはできないが、潮流としての「地方の低投票率化」が、秋田にも顕著となってきており、能代山本に及ぶ恐れなしとはしない。憂うべき事態と言えないだろうか。
 政治への関心の薄さが投票率の低さの原因と言われてきたが、地方の現状はむしろ、地域経済の低迷や少子高齢化や若者の流出などで活力が失われてきたことで、諦めが広がっているとも見て取れる。
 参院選へ、来春の能代山本の統一選へ、厳しい現実をさらしながら課題を浮かび上がらせ、議論を呼び起こして住民1人ひとりに選挙への参加を促すことを盛り上げたい。