やっぱりハタハタ寿司

(1月26日)

 ここ20年余り、自分の中では絶品というハタハタ寿司(ずし)があった。
 重石(おもし)が利いたのか酢の塩梅(あんばい)がよかったのか、食べても骨を感じず軟らか過ぎない食感。かじったブリコはポリポリプチプチと弾け、飲み込めた。ほどよいしょっぱさと鷹の爪のピリ辛が、冷酒を進ませた。何よりも発酵というか馴(な)れの進み具合が、独特の風味を運んできた。若干魚臭いので好き嫌いはあるだろうけれど。
 毎年、早ければ1月半ば、遅ければ2月初旬にタッパーに一つ届けてくれたのだが、届かない。昨年9月に病気で亡くなったのだから、分かりきっていたことなのだが、思い出すたびに、「もっと食べたかったなぁ」と寂しく思う。料理人の家の母から姉に、そして彼女にと伝わってきた味が途絶えたことは残念。誰かに伝授してくれればと思うが、急な逝去では…。
 そんなことに思い巡らしていると、なじみの70代の人が「出来ましたよ~」とハタハタ寿司を持ってきた。
 彼は退職後、なぜかハタハタ寿司づくりを始めたのだが、素人の男の料理は年を重ねて円熟。さっそく夜に少しばかりを酒の肴(さかな)にしたが、米と米麹(こうじ)で畳んだ寿司は軟らかく、酸味と甘さが混然として美味(おい)しかった。ユズの風味が何とも爽やか。
 秋田朝日放送の土曜朝の情報番組「サタナビ!」で23日、「ハタハタクイズ」を特集。県北(八峰町、能代市、三種町)と県央(大潟村、男鹿市、潟上市)、県南(由利本荘市、にかほ市)でハタハタ寿司の味に違いがあることを質問していた。
 正解は「県北=あっさり」「県央=しっとり」「県南=しっかり」で、県北は米を使った混ぜ寿司、県央は米に米麹の混ぜ寿司、県南は米に米麹と砂糖の押し寿司タイプとの解説があったが、それぞれの家庭、惣菜店によって味はさまざまであり、それを味わうのも楽しみである。
 直売所で買い求める人、居酒屋で注文する人。季節ハタハタの遅れで心配された寿司の人気は根強いのだ。(八)


 

能代弁は消滅するのか、いや

(1月15日)

 インターネットで本紙のウェブ版を愛読している能代市出身で横浜市に住む80代前半の男性から年末、小欄宛に次の内容のメールが届いた。
 「私の年代で、能代在住の人たちは当然ながら能代弁ですが、若い人たちはほぼ標準語の会話と聞きます。そこで前から気になっているのが、能代(秋田)弁も含めていわゆる方言というものは近い将来話されなくなるかどうかということです。方言は消滅してしまうものか、あるいは細々ながらも生き延びていくものなのかを、現状と照らし合わせて、個人的考えで結構なので取り上げてほしい」 
 これに対し、「方言は次第に減るとは思いますが、無くなりはしないと思います。残す、使ってみる、という取り組みがまだ脈々としてあるからです。公民館の子どもたちから募集する『方言かるた』とか、方言を使った商品開発など。私も日常の中から拾って、コラムで取り上げていきたいと思っています」と返信した。
 それが当を得ているか考えていたところ、年末も大詰めの頃、食事処(どころ)でこんな場面に出くわした。標準語で会話を弾ませていた20代前半と思われる男女3人が帰りしなに靴を履こうとしたところ、1人だけがなかなか履けずにいた。すると、「なに、もちゃめでらた」と声が飛んだのだ。
 「もちゃめぐ」は、動作が緩慢なさまを表す「もさもさ」が訛(なま)った方言とみられるが、「ぐずぐずする」や「ごたごたになる」「生気がない」などの場合にも使われる。彼の親が話す方言が自然と出たのだろう。
 年明け、なじみの店に寄ると、先客は20代と30代の女性。からからと笑って仕事を話題にしていた。標準語だったが、同僚について「いっつも、ねぶかぎ、するんだもの」と話した。居眠りのことを「ねぷかぎ」と発するところに、若い人に実は方言が伝わっていると確信した。
 古語のように消える方言はある。けれど、何気なく身に付く能代弁もあるとにんまりした。(八)


 

末吉、後に吉となる1年に

(1月8日)

 寒風吹きすさんだ元日の午後、近くの神社で初詣した後に、恒例のおみくじ引きをしようとすると、場所は無人のコンテナハウスであった。新型コロナウイルスの感染予防対策らしく、参拝客自らが箱に100円を入れ、くじを引くというやり方だった。
 どこもかしこもコロナ対策なのだ、今年はどうなるのやらと思いつつ、おみくじを開くと、「第丗九番 末吉」であった。吉の末、つまりは吉の中では最も下の運勢。凶が出なかっただけまだまし、とは思ったが、あまり運気がない年になるとのご託宣には少々気落ちした。
 さらに文面も読むと、仕事運は「急ぐな、中途でこじれる」、愛情運は「通じない状態」、健康運も「病気は一進一退」などとあり、「うーん」とうなった。運勢の総合の欄は次のように書かれていた。
 「山と川にはさまれて身動きがとりにくい状況。他人はあまり頼りにならず、見通しも立たない苦しみの時です。この際は何事も無理をさけ、時が解決してくれるのを待つ姿勢をとりましょう」。バタバタせず、じっと「我慢の子」でいろ、ということと理解したが、果たして。
 その文言を、ふと、コロナ禍と重ね合わせた。冬になって第3波が襲来、年末年始に首都圏を中心に感染が拡大、能代山本でも連日のように感染者が出る状況。収束がいつになるのか「見通しも立たない苦しみの時」である。
 不要不急の外出は控え、会食も小人数で騒がずにと「何事も無理をさけ」であり、感染者数が減少しワクチンが普及するという「時が解決してくれるのを待つ」との心構えである。
 運勢の文面の最後はこうであった。「雪の下の新年のように、春の雪解けを待ち、やがてつぼみがふくらむまで辛抱づよく頑張れば、よい見通しが立ってきます」。そういう気持ちで過ごそうとしよう。コロナで不安は尽きないけれど。
 末吉は「後に吉となる運勢」でもある。そうなる1年を願う。  (八)